マリー・アントワネット
概要
マリア・テレジアの娘として14歳でフランスへ嫁いだ。浪費と外国人への憎しみを一身に受け、「パンがなければ」の言葉を言った証拠は無い。夫の9か月後に処刑された。
所属
フランス王国関わったできごと(1)
フランス革命1789年 · 王妃本文
マリー・アントワネットは1755年11月2日、ウィーンに生まれた。母はオーストリアの女帝マリア・テレジア、父は神聖ローマ皇帝フランツ1世で、16人の子のうち15番目の子だった。ドイツ語名はマリア・アントーニア。勉強は苦手で、文字を書くのも遅かったが、音楽と舞踊を好む明るい少女だったと伝えられる。

オーストリアとフランスは、長く争ってきた宿敵だった。七年戦争の始まる1756年に両国は手を結び、その同盟を固めるため、女帝は娘をフランス王家に嫁がせることにした。1770年、14歳のアントーニアは、ストラスブールに近いライン川の中州で、オーストリアの随員と衣服のすべてを置き、フランスの衣装に着替えて国境を越えた。同じ年の5月、ヴェルサイユで王太子ルイ(のちのルイ16世)と結婚した(ヴェルサイユ宮殿への移座)。
結婚生活は、長く実を結ばなかった。7年あまり子ができず、宮廷では夫婦についての下品な噂が絶えなかった。母マリア・テレジアは毎月のように手紙を送り、振る舞いを戒めた。1774年に夫が即位して王妃になると、彼女は窮屈な宮廷の儀礼を嫌い、気の合う少数の友人と過ごすことを好んだ。ヴェルサイユの庭園の小さな離宮プチ・トリアノンを与えられ、そこに田舎の農村を模した村里まで造らせた。賭け事や衣装、髪型に大金を使ったことも事実で、外から見えない場所にこもる王妃の姿は、かえって疑いを招いた。

1777年、兄の皇帝ヨーゼフ2世がお忍びで訪れ、夫婦に助言をした。翌1778年に長女マリー・テレーズが生まれ、のちに王太子を含む子どもたちが続いた。
1785年、首飾り事件が起きた。ある詐欺師の女が、王妃の名をかたってロアン枢機卿をだまし、宝石商から高価なダイヤモンドの首飾りを王妃のために買わせて、首飾りを奪った事件である。王妃自身は何も知らなかった。ところが裁判で枢機卿が無罪になると、世論は王妃こそが黒幕だったかのように受け取った。王妃の浪費が国庫を空にしたという「赤字夫人」の呼び名も広まった。実際の財政難の大きな原因は、アメリカ独立戦争への参戦の費用などにあった。

「パンがなければお菓子を食べればいい」という言葉は、王妃が言ったという証拠が無い。似た言葉は、ルソーが『告白』の中で「さる高貴な姫君」の言葉として記しており(ジャン=ジャック・ルソー)、その部分は王妃がフランスに来る前に書かれたとされる。この言葉が王妃のものとして語られるのは、後の時代になってからである。
1789年にフランス革命が始まると、10月にはパリの女性たちを先頭とする群衆がヴェルサイユに押し寄せ、王一家はパリのテュイルリー宮殿に移された。王妃は兄の皇帝や諸外国の軍の介入に望みをかけた。1791年6月、王一家は変装して国外への脱出を図り、国境に近いヴァレンヌで捕らえられた。この逃亡には、王妃と親しいスウェーデン貴族フェルセンが深く関わっていた。王妃が計画の中心だったとする見方が多い。

1792年8月、王政は倒れ、一家はタンプル塔に閉じ込められた。翌1793年1月、夫は処刑された(ルイ16世の処刑)。7月、8歳の息子が母から引き離された。8月、王妃はコンシェルジュリーの牢へ移された。
10月の裁判で、王妃は国家への反逆の罪に加えて、幼い息子と不道徳な関係を持ったという罪まで突きつけられた。王妃は答えを拒み、なぜ答えないのかと問われると、母親に向けられたこのような非難には自然そのものが答えることを拒む、ここにいるすべての母親に訴える、と述べた。傍聴席にはどよめきが起きたと伝えられる。
1793年10月16日、マリー・アントワネットは後ろ手に縛られ、荷車で革命広場へ運ばれて断頭台にかけられた。37歳だった。処刑人の足を踏んで、わざとではないのです、と詫びたのが最後の言葉だという話も伝わる。恐怖政治のさなかのことである(恐怖政治)。

王妃の生前から、パンフレットや戯画は彼女を浪費家で淫らな「オーストリア女」として描き続けた。その像は、革命を正当化する物語の一部にもなった。のちの研究では、外国の出身で女性であったことが、どれほど彼女への憎しみをふくらませたかが論じられている。ただ、民衆の暮らしに思いを寄せることが乏しく、外国の軍に王権の回復を期待したことも事実である。悲劇の王妃としての像と、時代を読めなかった王妃としての像。その両方を抱えたまま、彼女はいまも小説や映画、漫画に描かれ続けている。