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Event / できごと

チャールズ1世の処刑

Execution of Charles I
AD1649年1月30日
重要度 5

概要

議会派が内戦に勝って、軍が議会を粛清し(プライドの追放)、残った議員が国王を裁いた。「反逆者、殺人者、国家の公敵」。王は裁判所の権限を認めなかった。1月30日、ホワイトホールのバンケティング・ハウスの窓から足場へ。シャツを2枚着た(震えて怖がっていると思われないように)。斧が落ちると、群衆がうめいた。イングランドは共和国になった。11年。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(2)

チャールズ1世AD1600年11月19日–AD1649年1月30日 · 処刑されたオリヴァー・クロムウェルAD1599年4月25日–AD1658年9月3日 · 署名した

本文

1642年から1646年、第一次内戦。1645年6月、ネイズビー。1646年5月、チャールズはスコットランド軍に投降した。スコットランドは40万ポンドで議会に渡した(1647年1月)。議会(長老派が多数)と軍(独立派、クロムウェル)が対立し、6月、軍が王を確保した。ハンプトン・コート。王は軍と議会を天秤にかけた。11月、逃げて、ワイト島のカリスブルック城へ(実は監視下)。12月、スコットランドと秘密協定(「エンゲージメント」。長老派をイングランドで3年認める代わりに、スコットランドが軍を送って王を戻す)。

1648年、第二次内戦。ケント、エセックス、ウェールズで王党派が立ち、スコットランド軍が入った。8月、プレストンでクロムウェルが潰した。軍は決めた。「血の男(マン・オブ・ブラッド)」。もう交渉しない。11月、軍の「抗議書」。裁判を求めた。議会(長老派)は王とニューポートで交渉を続けていた。12月6日、プライド大佐が下院の入り口に立って、議員を選別した。45人を逮捕、186人を排除。「プライドのパージ」。残った200人(実際に出席したのは70人ほど)。「ランプ(尻尾)議会」。

1649年1月1日、下院は王を裁く高等法院の設置を可決した。上院は拒否した。1月4日、下院は「人民が全ての正当な権力の源で、下院はそれを代表し、下院の決議は上院と王の同意なしに法である」と宣言した。1月6日、135人の委員。半分以上が来なかった。裁判長はジョン・ブラッドショー(無名の弁護士。銃弾を恐れて鉄で裏打ちした帽子をかぶった)。

1月20日、ウェストミンスター・ホール。「チャールズ・スチュアートは、暴君、反逆者、殺人者、そしてイングランドの善良な人民の公敵である」。チャールズは帽子を取らなかった。「私はどのような権威によって、ここに呼ばれたのか。私は、あなたがたが認める、正当な権威を見たい」。「王は、人民によって選ばれた者に、責任を負わない」。4日間、彼は答弁を拒んだ。答弁を拒むことは、法的には有罪の自認だった。1月27日、判決。死刑。59人が署名した(クロムウェルは3番目)。「悪魔の道化」と、後に王党派が呼んだ。

1月30日、火曜日。朝、王はホワイトホールへ歩いた。シャツを2枚着た。「季節は寒い。震えると、恐れていると思われる。私は恐れていない」。ジャクソン主教と、最後の祈り。午後2時頃、バンケティング・ハウス(イニゴー・ジョーンズが父ジェームズのために建てて、ルーベンスがジェームズの神格化を天井に描いた部屋)の窓から、黒い布を張った足場へ。群衆は遠くに(騎兵が距離を取らせた)。短い演説(聞こえなかった)。「私は、腐敗しうる冠から、腐敗しない冠へ行く」。首切り台は低かった(暴れたときのために)。「Remember」とジャクソンに。手を広げるのが合図。斧。一撃。首を掲げた。群衆の「うめき」を、17歳の少年が聞いて、生涯忘れなかった、と書き残した。処刑人は覆面で、誰かは分からない(ブランドン、と言われる)。血をハンカチに浸した人がいた。

2月、上院を廃止。3月、王政を廃止。5月、「コモンウェルス」。1653年、クロムウェルが議会を解散して護国卿。1658年、死んだ。1660年、チャールズ2世。1661年1月30日、クロムウェルの遺体が掘り出されて絞首刑にされた。署名した59人のうち、生きていた者は裁かれ、9人が絞首・内臓抉り・四つ裂き。

イングランド国教会は1月30日を「王殉教者チャールズ」の日にした(1859年まで祈祷書に)。ヨーロッパの王が、臣民に裁判で殺されたのは、初めてだった。144年後、ルイ16世。

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