できごと

プラハの春

Prague Spring
AD1968年8月21日
重要度 5
プラハの春に関わる図版:10 Soviet Invasion of Czechoslovakia - Flickr - The Central Intelligence Agency
10 Soviet Invasion of Czechoslovakia - Flickr - The Central Intelligence Agency Wikimedia Commons The Central Intelligence Agency · Public domain

概要

ドプチェクの「人間の顔をした社会主義」。検閲の廃止。8か月。8月20日の夜、ワルシャワ条約軍20万と戦車2000両。市民は道路標識を外し、戦車の前に座り、ラジオで抵抗した。その年のうちに137人が死んだ。ドプチェクはモスクワに連れて行かれ、署名させられた。「正常化」。翌年、パラフが焼身した。

場所

プラハ
50.08°N 14.44°E · チェコ

関わった人(1)

アレクサンデル・ドゥプチェクAD1921年11月27日–AD1992年11月7日 · 改革

本文

チェコスロヴァキアは、戦前のヨーロッパで数少ない、議会制の民主主義が根づいた国だった。工業も進み、市民の暮らしの水準も高かった。1948年2月、共産党が政権を握ると(チェコスロヴァキアの二月事件)、国はソ連にならった一党支配の道を歩みはじめる。1950年代のはじめには、共産党の幹部さえもが西側のスパイの汚名を着せられ、見せしめの裁判で処刑された。

1960年代に入ると、ほころびが目立ってきた。計画経済は行き詰まり、1963年には経済成長がマイナスになった。第一書記のノヴォトニーは古い型の指導者で、スロヴァキアの人々の自治の要求にも冷淡だった。1967年6月の作家同盟の大会では、ミラン・クンデラやルドヴィーク・ヴァツリークらが、検閲と党の支配を公然と批判した。秋にはプラハの学生寮で電気が止まったことへの抗議デモを警官が殴りつけ、反発が広がった。党の中でも改革を求める声が強まり、1968年1月5日、ノヴォトニーは第一書記の座を追われた。後を継いだのが、スロヴァキア出身のアレクサンデル・ドゥプチェクである。

ソ連軍の戦車が発火する
ソ連軍の戦車が発火するWikimedia Commons National Archives (archive.org) · Public domain

ドゥプチェクはソ連で育ち、モスクワの党学校で学んだ、忠実な党人と見られていた。だが彼のもとで、国の空気は急に変わった。3月には検閲が事実上止まり、新聞やラジオやテレビは、過去の粛清や党の失敗を自由に論じはじめた。ノヴォトニーは大統領も辞め、第二次世界大戦の英雄スヴォボダ将軍が後を継いだ。4月、党は「行動綱領」を発表し、言論と集会の自由、経済への市場のしくみの導入、スロヴァキアの自治の拡大などを掲げた。共産党の指導は保つが、力ずくではなく人々の支持によって指導する。この考えは「人間の顔をした社会主義」と呼ばれた。6月には検閲の廃止が法律でも定められた。

6月27日、ヴァツリークが起草した「二千語宣言」が新聞に載った。改革を党の上層部任せにせず、市民が自分たちの手で、職場や地域から古い権力者を退けていこうと呼びかける文書で、多くの著名人が署名した。ドゥプチェクら党の指導部は、行き過ぎだとしてこの宣言から距離を置いた。だが、モスクワやワルシャワや東ベルリンの指導者たちの目には、これは党の支配が崩れていく兆しにしか見えなかった。ハンガリーで1956年に起きた事態(ハンガリー動乱)が、彼らの頭にはあった。改革が自国に飛び火することも恐れた。

ハンガリー動乱に関わる図版:Hungarian Revolution of 1956 collage
ハンガリー動乱Wikimedia Commons Главцентроархив · CC0

7月、ソ連と東ヨーロッパの4か国の党は、チェコスロヴァキアの改革を反革命の危険と非難する書簡を送った。7月の末、ソ連共産党の政治局はほぼ全員で、スロヴァキアの国境の町チエルナ・ナド・ティソウまで出向き、ドゥプチェクらと4日間にわたって話し合った。続いて8月3日、ブラチスラヴァで東側の6か国の党が会議を開き、共同の声明を出した。ドゥプチェクは危機が去ったと考えた。しかし8月半ば、レオニード・ブレジネフを中心とするソ連の指導部は、軍事介入を決めた。

1968年8月20日の夜11時ごろ、ソ連、ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアの5か国の軍が、いっせいに国境を越えた(ワルシャワ条約機構)。ルーマニアは加わらなかった。最初の兵力は20万人前後、戦車は数千両とされ、のちにさらに増やされた。東ドイツの部隊は、ドイツの兵が30年前と同じようにこの国へ入ることへの反発を考えて、実際にはほとんど国境の内側に入らなかったことが、のちの研究で分かっている。プラハのルズィニエ空港には、民間機を装った飛行機が着陸して空港を押さえ、そのあとから輸送機が次々に兵と装甲車を降ろした。

レオニード・ブレジネフ
レオニード・ブレジネフWikimedia Commons Knudsen, Robert L. · Public domain

チェコスロヴァキアの軍は、抵抗しないよう命じられた。21日の未明、党本部はソ連の兵に囲まれ、ドゥプチェク、議会議長のスムルコフスキー、首相のチェルニークらが捕らえられ、モスクワへ連れ去られた。プラハの人々は、武器を持たずに抵抗した。戦車を取り囲んで若い兵士たちに、なぜここに来たのかと問いかけた。道路の標識を外したり向きを変えたりして、侵攻軍を迷わせた。地下にもぐった放送局が場所を変えながら放送を続け、壁には兵士に帰れと呼びかける落書きがあふれた。ラジオ局を守ろうとした市民と侵攻軍がぶつかったヴィノフラディ通りでは、多くの死傷者が出た。チェコの研究機関の調べでは、侵攻とその後の占領で、1968年の末までに137人のチェコスロヴァキアの市民が命を落としたとされる。

ソ連は、言いなりになる新しい政府を作ろうとしたが、協力する者が集まらなかった。スヴォボダ大統領は自らモスクワへ乗り込み、捕らえられた指導者たちを返さなければ交渉しないと迫った。8月26日、ドゥプチェクらはソ連軍の駐留を認め、改革を後退させる「モスクワ議定書」に署名させられた。署名を拒んだのは、国民戦線の議長クリーゲルただ一人だった。27日、プラハに戻ったドゥプチェクはラジオで国民に語りかけたが、その声は何度も途切れた。

チェコスロバキア侵攻に反対するヘルシンキでの抗議デモ
チェコスロバキア侵攻に反対するヘルシンキでの抗議デモWikimedia Commons Szilas · Public domain

それから始まったのが「正常化」である。検閲が戻り、改革を支えた人々は職場を追われていった。1969年1月、学生のヤン・パラフが占領と無気力への抗議としてヴァーツラフ広場で焼身し(ヤン・パラフの焼身)、数日後に亡くなった。4月、ドゥプチェクは第一書記を解かれ、グスターフ・フサークが後を継いだ。やがて50万人近くが党から除名されたり、党籍を失ったりした。ドゥプチェク自身ものちに党を除名され、スロヴァキアの営林署で働かされた。ソ連はこの介入を、社会主義の国々全体の利益のためには一国の主権は制限されうるという理屈で正当化した。西側はこれを「ブレジネフ・ドクトリン」と呼んだ。

それでも、春の記憶は消えなかった。1977年には劇作家のヴァーツラフ・ハヴェルらが、人権の尊重を求める「憲章77」を発表した。1989年11月、ビロード革命のさなか、ドゥプチェクはヴァーツラフ広場を見下ろすバルコニーに21年ぶりに姿を現し、群衆の歓呼を浴びた。同じ年の12月、侵攻に加わった国々は、1968年の介入は誤りだったと認めた。ソ連でペレストロイカとグラスノスチを進めたゴルバチョフが1987年にプラハを訪れたとき、その改革とプラハの春の違いを問われたソ連外務省の報道官が、19年だ、と答えたという話も伝えられている。ヴァーツラフ広場の国立博物館の前の舗道には、パラフらを記念する十字の形の碑が埋め込まれている。

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