人物

ロバート・ブルース

Robert the Bruce
AD1274年7月11日 – AD1329年6月7日(享年54)
スコットランド重要度 4

概要

教会の中で対抗馬を刺し殺して王になり、破門され、負けて島に隠れ、蜘蛛が巣を張るのを見て立ち直った、と伝説は言う。バノックバーンで勝ち、独立を認めさせた。心臓は聖地へ運ばれる途中でスペインの戦場に投げ込まれた。

関わったできごと(1)

バノックバーンの戦いAD1314年6月24日 · 王

本文

ロバート・ブルースは1274年7月11日、スコットランド南西部の名門の家に生まれた。生まれた場所はターンベリーの城とされる。ブルース家はノルマン系の貴族で、スコットランドとイングランドの両方に領地を持っていた。1290年、スコットランドの王家の血筋が途絶えると、王位を求める者が十数人も名のりを上げた。その一人が彼の祖父だったが、裁定を任されたイングランド王エドワード1世は、ジョン・ベイリャルを王に選んだ。エドワードはこの機に乗じてスコットランドを支配下に置こうとし、1296年に攻め込んでベイリャルを退位させた。

ロバート・ブルース
ロバート・ブルースWikimedia Commons Public domain

若いブルースの動きは、定まらなかった。1296年にはエドワードに忠誠を誓い、翌年ウィリアム・ウォレスの反乱が起こるとそれに加わり、1302年には再びエドワードに従った。1305年、ウォレスが捕らえられてロンドンで処刑されると、スコットランドの抵抗を率いる者がいなくなった。

1306年2月10日、ブルースは南西部のダンフリースにある修道会の教会で、スコットランド貴族の有力者ジョン・カミンと会った。カミンはベイリャルの甥で、王位を争う相手でもあった。二人は口論になり、ブルースは祭壇の前でカミンを刺した。同行していた者たちがとどめを刺したと伝えられる。教会での殺人は神を冒す大罪で、ブルースは教皇から破門された。もはや引き返す道は無かった。わずか7週間後の3月25日、彼は王の戴冠の地スクーンで、スコットランド王として冠を受けた。冠を置く役目は代々ファイフ伯の家が担っていたため、その家の出のバカン伯夫人イザベラが、夫の反対を押し切って駆けつけ、儀式を務めた。

バノックバーンの戦いを前にして自軍兵士を整列させるロバート1世。
バノックバーンの戦いを前にして自軍兵士を整列させるロバート1世。Wikimedia Commons Edmund Blair Leighton · Public domain

王としての出発は、惨めだった。6月にはイングランド軍に大敗し、ブルースは逃亡の身となった。エドワード1世の報復は苛烈だった。弟のナイジェルは処刑され、翌年には別の二人の弟も殺された。戴冠に冠を置いたイザベラと、ブルースの妹メアリは、城壁に吊るした檻に何年も閉じ込められ、妻エリザベスと幼い娘マージョリーも捕らえられて幽閉された。ブルース自身は1306年の冬を、西の島々かアイルランドのどこかに隠れて過ごしたとされるが、居場所ははっきりしない。洞窟の中で、何度失敗しても巣を張り直す蜘蛛を見て、もう一度戦う勇気を得たという話は、19世紀に作家ウォルター・スコットが広めた伝説である。

1307年の春、ブルースは本土に戻って小さな勝利を重ね始めた。その夏、宿敵エドワード1世が北へ向かう途中で病死した。跡を継いだエドワード2世は父ほどの決意を持たなかった。ブルースは、カミン家の勢力が強い北東部を攻めて荒らし尽くし、国内の敵を一つずつ倒しては、イングランド軍の守る城を奪い返していった。1314年には、甥のランドルフらが崖をよじ登ってエディンバラ城を奪い取った。

1314年6月、スターリング城を救いに来たエドワード2世の大軍を、ブルースはバノックバーンで迎え撃ち、大勝した(バノックバーンの戦い)。この勝利で、スコットランドの独立は事実のものになった。1320年には、スコットランドの貴族たちが教皇にあてた書簡で、たとえ100人しか生き残らなくとも、イングランドの支配には決して服さない、我々が戦うのは名誉や富のためではなく自由のためだ、と訴えた。アーブロース宣言と呼ばれるこの文書は、のちに国民の自由をうたった文書の先駆けとして讃えられる。

バノックバーンの戦いに関わる図版:Battle of Bannockburn
バノックバーンの戦いWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

イングランドがようやく独立を認めたのは、1328年である。エドワード2世が廃されて若いエドワード3世が即位した後、エディンバラ・ノーサンプトン条約が結ばれ、ブルースの4歳の息子デイヴィッドと、エドワード3世の7歳の妹ジョーンとの結婚が取り決められた。

ブルースは晩年、重い皮膚の病に苦しみ、1329年6月7日、クライド川のほとりのカードロスの館で54歳で亡くなった。病はハンセン病だったとも言われるが、確かなことは分からない。彼は生前、十字軍に行けなかったことを悔やみ、自分の心臓を聖地へ運んでほしいと願っていた。腹心のジェームズ・ダグラスが心臓を銀の小箱に入れて旅立ったが、途中、スペインで、のちにレコンキスタの完了へと至るイスラーム勢力との戦いに加わり、1330年、テバの戦場で討ち死にした。ダグラスは心臓の箱を敵の中へ投げ込み、それを追って突撃したと伝えられる。心臓はスコットランドに持ち帰られ、メルローズ修道院に葬られた。遺体はダンファームリン修道院に葬られ、1818年に墓が見つかったとき、胸の骨が心臓を取り出すために切り開かれていたという。

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