できごと

ジャワ戦争

Java War
1825年 – 1830年
期間を持つできごと重要度 4
ジャワ戦争に関わる図版:Bestorming van Pleret
Bestorming van Pleret Wikimedia Commons J.P. van de Veer · Public domain

概要

王族ディポヌゴロが率いた5年の戦い。ジャワ人20万人が死に、オランダも財政が傾いた。この戦費を取り返すために、強制栽培制度が始まる。

場所

ジョグジャカルタ
-7.80°N 110.37°E · インドネシア・ジャワ島

関わった人(1)

ディポヌゴロAD1785年11月11日–AD1855年1月8日 · 率いた

本文

19世紀のはじめ、ジャワ島の中部にはジョグジャカルタとスラカルタという二つの王家があった。かつてのマタラム王国が18世紀半ばに分割されたもので、どちらもオランダの強い影響のもとにあった。ナポレオン戦争のあいだはイギリスがジャワを占領し、1812年にはスタンフォード・ラッフルズの軍がジョグジャカルタの王宮を攻めて略奪している。1816年にジャワがオランダへ返されたとき、宮廷の権威はすでに大きく傷ついていた。

ディポヌゴロは、ジョグジャカルタのスルタンの長男として生まれた。母が正妃ではなかったため王位は継げず、王宮の外の領地テガルレジョで、曾祖母のもとで育った。若いころからイスラームの学びに打ち込み、各地の宗教学校や聖地を巡って、村の宗教指導者たちと深く交わった。宮廷が若い王を立ててオランダ人の言いなりになり、贅沢と腐敗にふけるのを、彼は苦々しく見ていた。

ニコラス・ピーネマン画『ディポヌゴロ王子のデ・コック将軍への降伏』
ニコラス・ピーネマン画『ディポヌゴロ王子のデ・コック将軍への降伏』Wikimedia Commons Nicolaas Pieneman · Public domain

1820年代、農村の暮らしは苦しくなっていた。街道には関所が増え、華人の徴税請負人が通行税を取り立てた。王族がヨーロッパ人や華人に貸していた土地を、オランダの総督が貸借ごと取り上げさせ、前金の返済が王族にのしかかった。凶作と疫病も重なった。正義の王が現れて世を正すという古い予言が、村々でささやかれていた。

引き金は、ささいな工事だった。1825年、オランダ側は道路を通すため、ディポヌゴロの領地に測量の杭を打った。その線は彼の祖先の墓地を横切っていた。杭は抜かれ、また打たれた。7月、オランダ軍がテガルレジョの屋敷を攻めると、ディポヌゴロは逃れて西の丘陵に拠点を移し、兵を挙げた。

ヘルマン・ウィレム・ダーンデルス
ヘルマン・ウィレム・ダーンデルスWikimedia Commons Raden Saleh · Public domain

ジャワ中部の農民と、宗教指導者とその弟子たちが次々に加わった。指導者のひとりキヤイ・マジャは、この戦いをイスラームの聖戦として意味づけた。ディポヌゴロは正義の王として迎えられ、反乱は宮廷の争いを越えて、ジャワ中部から東部にまで広がった。若い騎兵指揮官セントットは、機動力のある部隊を率いてオランダ軍を苦しめた。

オランダは苦しんだ。本国から送れる兵は限られ、熱帯の病で倒れる者も多かった。1827年ごろから、司令官デ・コックは戦い方を変えた。占領した土地に小さな要塞を次々と築き、道路で結び、反乱側が動ける範囲を少しずつ狭めていく。費用はかかるが確実な方法だった。1828年にキヤイ・マジャが捕らえられ、翌年にはセントットが降伏した。

トーマス・ラッフルズ
トーマス・ラッフルズWikimedia Commons George Francis Joseph · Public domain

1830年3月、ディポヌゴロはマゲランでの和平交渉の席に招かれ、その場で捕らえられた。休戦中の交渉の場でのだまし討ちだった。彼はスラウェシのマナドへ、のちにマカッサルの要塞へ移され、1855年にそこで死んだ。流刑のあいだに、自分の生涯を韻文の年代記に書き残している。捕らえられる場面は、のちにジャワ出身の画家ラデン・サレーが描いた。

死者はジャワ人がおよそ20万人、オランダ側はヨーロッパ兵と現地兵を合わせて1万5000人ほどとされる。戦費はオランダの財政に深い穴をあけた。同じ1830年にはベルギーが独立を求めて立ち上がり(ベルギーの独立)、本国はさらに苦しくなる。

ディポヌゴロ
ディポヌゴロWikimedia Commons Lithograph by C. C. A. Last in 1835 to an original pencil drawing by A. J. Bik from 1830 · Public domain

その穴を埋めるために始められたのが、ジャワの強制栽培制度である。村に農地の一部でコーヒーや砂糖などを作らせ、政府が決めた値で買い上げて、ヨーロッパで売る。この収入が、19世紀半ばのオランダ本国の歳入の三割ほどを支えた時期がある。ジャワ戦争は、王族の反乱が鎮められて終わったのではなく、植民地からの収奪をもう一段深くする出発点になった。

この戦いのあと、ジャワの王家が武力でオランダに抗うことはなくなった。ディポヌゴロは20世紀の民族運動のなかで抵抗の象徴として思い起こされ、インドネシア独立宣言ののち国家英雄とされた。紙幣に描かれたこともあり、各地の通りや大学、軍の師団にその名が付いている。

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