第一回帝国議会
概要
選挙で選ばれた議員が国政に加わった。有権者は納税額で絞られ、全人口の1%ほど。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(2)
大隈重信1838年–1922年 · 議会側板垣退助1837年–1919年 · 議会側本文
明治14年(1881年)、政府は10年後に国会を開くと約束した(明治十四年の政変)。その間に伊藤博文らはヨーロッパで憲法を調べ、内閣制度の創設を経て、1889年2月に大日本帝国憲法の発布が発布された。憲法は、天皇の名で定められた欽定憲法であり、議会の権限は限られていた。それでも、法律と予算は議会の協賛を得なければならないと定めていた。
1890年7月1日、最初の衆議院議員総選挙が行われた。選挙権は、直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子にしか与えられなかった。有権者はおよそ45万人で、人口の1.1パーセントほどになる。多くは地租を納める地主だった。それでも投票率は9割を超え、300の議席が争われた。

投票は今と違い、有権者が投票用紙に自分の住所と氏名を書き、印を押す記名式だった。誰が誰に入れたかは隠せない。選挙区は小選挙区が中心で、1人区と2人区からなっていた。
結果は、政府に批判的な政党(民党)の勝利だった。旧自由党系の諸派がのちに立憲自由党としてまとまって約130議席、大隈重信が率いた立憲改進党が40余り。合わせて過半数を超えた。板垣退助と大隈重信は、ともに議員には立たなかったが、それぞれの党の看板だった。

議会は、選挙で選ばれる衆議院と、皇族・華族・勅選議員などからなる貴族院の二院で構成された。11月25日に召集され、29日に開院式が行われた。議事堂は、日比谷に急いで建てられた木造の仮の建物だった。この仮議事堂は、翌年1月、会期の途中に漏電による火事で焼けている。
衆議院の議長には民党側の中島信行が選ばれ、貴族院の議長には伊藤博文が就いた。議員たちは議事の進め方も手探りで、発言の手続きや採決の仕方をめぐって、初日から混乱が続いたと伝えられる。それでも、政府の予算案が議員の手で細かく審議され、新聞がその様子を連日伝えたこと自体が、それまでの日本には無かった光景だった。

政府の側は、山県有朋が首相を務めていた(山県有朋)。政府は「超然主義」を掲げていた。内閣は天皇に対して責任を負うのであって、議会の多数派がどうであれ、政党の外に立つという立場である。山県は施政方針の演説で、国境である「主権線」に加えて、その安全に深く関わる「利益線」を守らねばならないと述べ、軍備の拡張に予算が要ることを訴えた。ここで言う利益線は、朝鮮半島を念頭に置いていた。
民党は「政費節減・民力休養」を掲げて対抗した。役所の経費を削って、その分を地租の軽減に回せという主張である。衆議院の予算委員会は、政府の予算案から800万円近くを削る案をまとめた。予算が成立しなければ、前年度の予算を執行できる規定はあったが、政府にとっては大きな打撃になる。

最後は妥協で決着した。立憲自由党のうち土佐出身の議員の一部が政府と通じ、削減額を600万円台に縮めた案に賛成して、予算は成立した。「土佐派の裏切り」と呼ばれる。自由党の議員だった中江兆民はこれに憤り、議会を「無血虫の陳列場」とののしって議員を辞めた。
第一議会は大きな混乱なく会期を終え、日本はアジアで初めて、憲法に基づく議会を実際に動かした国になった。だが、予算をめぐる政府と民党の衝突はここから毎年のように繰り返される。続く第二議会では政府が衆議院を解散し、1892年の選挙では内務省が激しい選挙干渉を行い、各地で死傷者が出た。対立が和らぐのは、日清戦争を経て、政府と政党が手を結ぶようになってからである。

選挙権の納税額の条件は、その後しだいに引き下げられ、1925年の普通選挙法で満25歳以上の男子すべてに広がった。女性が選挙権を得るのは、第二次世界大戦の敗戦後、1945年の法改正によってである。民撰議院設立建白書から16年、人口の1パーセントの声を集めた議会が、その長い道のりの出発点だった。