できごと

ハンガリー動乱

Hungarian Revolution of 1956
AD1956年10月23日
重要度 5
ハンガリー動乱に関わる図版:Hungarian Revolution of 1956 collage
Hungarian Revolution of 1956 collage Wikimedia Commons Главцентроархив · CC0

概要

学生のデモがスターリン像を倒した。ナジ・イムレが首相になり、ワルシャワ条約からの脱退を宣言した。11月4日、ソ連の戦車。2500人が死に、20万人がオーストリアへ逃げた。ナジは2年後に秘密裁判で絞首刑。1989年6月16日の再埋葬に25万人が集まり、それが体制の終わりだった。

場所

ブダペスト
47.50°N 19.04°E · ハンガリー

関わった人(2)

ナジ・イムレAD1896年6月7日–AD1958年6月16日 · 首相ニキータ・フルシチョフAD1894年4月15日–AD1971年9月11日 · 戦車を送った

本文

1956年10月23日、ブダペストの街を、学生たちを先頭にした大勢の市民が埋めた。ソ連の言いなりの政府に、自由と独立を求める行進だった。その夜、市民公園の近くに立っていた巨大なスターリンの像が引き倒され、ラジオ局の前では秘密警察が群衆に発砲した。抗議は一夜にして武装した蜂起になった。ハンガリーは一時、ソ連の支配から抜け出したかに見えたが、11月4日、ソ連の戦車が首都になだれ込み、すべてを押しつぶした。

第二次世界大戦の後、ハンガリーはソ連の占領下で共産党の国にされた。権力を握った党の指導者ラーコシは、自らを「スターリンの最良の弟子」と称し、秘密警察を使って、敵とみなした者を次々に逮捕し、処刑した。1949年には、党の幹部だったライク・ラースローまでが、でっち上げの裁判で処刑された。農民は集団農場に押し込まれ、重工業を優先する計画で市民の暮らしは苦しくなった。

1953年のスターリンの死が、空気を変えた。ソ連の新しい指導部の求めで、ハンガリーでは改革派のナジ・イムレが首相になり、政治犯の釈放や農民への締めつけの緩和を進めた。だがラーコシは党の実権を手放さず、1955年にナジを失脚させ、党から追い出した。翌1956年2月、ソ連のニキータ・フルシチョフが党大会でスターリンの罪を告発すると(フルシチョフの秘密報告)、東ヨーロッパの共産党の国々は大きく揺らいだ。6月にはポーランドで労働者が蜂起し(ポズナン暴動)、7月にはラーコシが党の第一書記の座を追われた。10月6日には、名誉を回復されたライクの遺体が改めて埋葬され、十万を超える人びとが無言でその葬列に加わった。

スターリンの死に関わる図版:Stalin's funeral procession entering Manezhnaya Square from Okhotny Ryad
スターリンの死Wikimedia Commons U.S. Army Major Martin Manhoff · Public domain

10月23日、ポーランドで改革派が勝利したことに連帯を示そうと、ブダペストの学生たちが行進を呼びかけた。彼らは、ソ連軍の撤退、ナジの首相への復帰、複数の政党による自由な選挙、言論の自由などを求める要求をまとめていた。行進には仕事帰りの労働者も加わり、夕方には国会議事堂の前の広場を、20万人ほどの群衆が埋めた。一部の群衆はスターリン像に向かい、綱をかけ、トラックで引き、切断して倒した。台座の上には、スターリンの長靴だけが残った。別の群衆は、要求を放送させようとラジオ局に押しかけた。建物を守っていた秘密警察が発砲し、死者が出た。軍の兵士や警官の中には武器を群衆に渡す者も現れ、抗議は銃撃戦になった。

その夜、党の指導部はナジを首相に呼び戻すと同時に、ソ連軍に出動を求めた。翌24日の朝、ソ連の戦車がブダペストに入ってきた。だが若者たちは、狭い路地や建物の陰から火炎瓶で戦車に立ち向かい、街の各所で激しい戦いが続いた。25日には、国会前に集まった丸腰の群衆に向けて銃撃が加えられ、大勢が死んだ。屋上から撃ったのが誰だったのかは、今もはっきりしていない。

1956年、ブダペストのソビエト軍戦車
1956年、ブダペストのソビエト軍戦車Wikimedia Commons CIA · Public domain

ナジは最初、蜂起を「反革命」と呼んでいたが、やがて民衆の側に立つ決断をした。10月28日、彼は停戦を発表し、ソ連軍がブダペストから撤退することを告げた。30日には、共産党だけが支配する体制をやめ、戦前の政党を加えた連立の政府を作ると宣言した。獄中にあったカトリックの首座、ミンドセンティ枢機卿も解放された。同じ日、党の本部が武装した市民に襲われ、中にいた秘密警察の要員たちが群衆に殺された。こうした報復の光景は、ソ連が後に介入を正当化する材料に使われた。

モスクワの指導部は揺れていた。10月30日、ソ連政府は東ヨーロッパの国々との関係を見直し、軍の駐留についても話し合う用意があると発表した。だが翌31日、フルシチョフらは一転して、軍事介入を決めた。ハンガリーを手放せば、東ヨーロッパの他の国々にも動揺が広がる。ちょうどこの時、イギリスとフランスがエジプトに攻め込んでおり(スエズ危機)、西側の目はそちらへ向いていた。11月1日、ソ連軍の新たな部隊が国境を越えて入ってくるのを知ったナジは、ハンガリーがワルシャワ条約機構から抜けて中立の国になると宣言し、国連に助けを求めた。同じころ、ナジの政府に加わっていた党の指導者カーダール・ヤーノシュは、ひそかにブダペストから姿を消し、ソ連の側についた。

スエズ危機に関わる図版:Port Said from air
スエズ危機Wikimedia Commons Fleet Air Arm official photographer · Public domain

11月3日、撤退について話し合うためにソ連軍の司令部に赴いた国防相マレーテル・パールは、その場でソ連の秘密警察に逮捕された。翌4日の明け方、ソ連軍は大兵力で総攻撃を始めた。ナジはラジオで、今朝ソ連軍が我が国の首都を攻撃した、合法的なハンガリーの政府を倒すためである、我々の軍は戦っている、と世界に向けて訴えた。だが西側の国々は動かなかった。戦いは数日で終わり、労働者たちのストライキと抵抗も、年末までに押さえ込まれた。

蜂起とその鎮圧で、ハンガリー側では2500人ほどが死に、ソ連軍の兵士も700人ほどが死んだとされる。20万人前後の人びとが、オーストリアやユーゴスラヴィアへと国境を越えて逃れた。オーストリアとの国境の湿地にかかる小さな橋、アンダウの橋は、多くの難民が渡った場所として知られる。

エレノア・ルーズベルトは1957年5月10日、ザルツブルクのローダー避難所で亡命中のハンガリーの革命家たちと面会した。
エレノア・ルーズベルトは1957年5月10日、ザルツブルクのローダー避難所で亡命中のハンガリーの革命家たちと面会した。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

ナジは仲間とともにユーゴスラヴィアの大使館に逃げ込んでいたが、身の安全を約束されて11月22日に大使館を出たところで連れ去られ、ルーマニアへ送られた。1958年6月16日、秘密の裁判で死刑を言い渡され、マレーテルらとともに絞首刑になった。遺体はブダペストの墓地の外れの区画に、名前もなく、うつ伏せに埋められたと伝えられる。

カーダールはその後、30年以上にわたってハンガリーを治めた。最初の数年は苛烈な弾圧を加えたが、やがて統制を緩め、ある程度の市場の仕組みや消費の豊かさを認めて、「グヤーシュ共産主義」と呼ばれる東側で比較的ゆるやかな体制を作った。1956年のことは、長いあいだ「反革命」としか呼ぶことが許されなかった。

破壊されたスターリン像
破壊されたスターリン像Wikimedia Commons Ines Zgonc · CC BY 3.0

1989年、東ヨーロッパの共産党の支配が揺らぐ中で、ハンガリーの改革派は1956年を「民衆の蜂起」と呼び直した。処刑からちょうど31年後の1989年6月16日、ナジと仲間たちの遺体は掘り出され、ブダペストの英雄広場で改めて葬儀が行われた。25万人ほどが集まり、26歳の学生指導者オルバーン・ヴィクトルは、ソ連軍の撤退を公然と求める演説をした。その夏、ハンガリーはオーストリアとの国境を開き(汎ヨーロッパ・ピクニック)、秋にはベルリンの壁の崩壊につながっていく。10月23日、蜂起の始まりの日に、ハンガリーは共和国として新しい出発を宣言した。

1968年のプラハの春がそうであったように、ソ連は東ヨーロッパの改革を戦車で止め続けた。だが1956年のブダペストで流された血は、33年後、体制そのものの終わりを告げる葬儀として報われた。ブダペストの街の古い建物の壁には、今も弾の跡が残っている。共産時代の像を集めた郊外の公園には、あの夜倒されたスターリン像の、長靴の部分を写した複製が置かれている。

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