イクイアーノの自伝
概要
奴隷にされ、自分で自由を買い戻した人が、その体験を書いた。版を重ね、議会でも読まれる。黒人が自分の言葉で書いた本が、そのこと自体で議論を動かした。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
オラウダ・イクイアーノAD1745年頃–AD1797年3月31日 · 著者本文
1789年、ロンドンで、上下二巻の本が出た。題は『アフリカ人オラウダ・イクイアーノ、またの名をグスタヴス・ヴァッサの生涯の興味深い物語、本人による』。かつて奴隷とされ、自分で自由を買い取った人が、その生涯を自分の言葉で書いた本である。
本によれば、オラウダ・イクイアーノは1745年頃、いまのナイジェリアの南東部、イボの人々が住む地域の村に生まれた。父は村の長老で、彼は七人きょうだいの末っ子だった。本の初めの部分には、村の暮らし、農業、祭り、結婚の習わしなどが、愛情をこめて描かれている。

11歳ほどのとき、大人たちが畑に出ている間に、彼は妹とともに、家に忍び込んだ者たちにさらわれた。妹とはまもなく引き離された。アフリカの中で何度も売られたあと、海岸に連れて行かれ、そこで初めて白い肌の人々と大きな船を見た。彼らに食べられてしまうのではないかと恐れた、と彼は書いている。
大西洋を渡る船の船倉の描写は、この本の中でも特によく知られている。鎖でつながれた人々が、身動きもできないほど詰め込まれ、暑さと悪臭の中で息もできない。多くの人が病に倒れて死んでいった。食べることを拒んだ者は鞭で打たれた。海に身を投げる者もいた。奴隷船の中の様子を、そこにいた人の側から書いた記録は少なく、この描写は、大西洋の奴隷貿易(大西洋奴隷貿易)の実態を伝える重要な証言として扱われてきた。

カリブ海のバルバドスに着いたあと、彼はアメリカのヴァージニアに送られ、そこでイギリス海軍の士官パスカルに買われた。パスカルは彼に、スウェーデンの王の名にちなんで、グスタヴス・ヴァッサという名を与えた。彼はこの名を生涯使った。主人とともに軍艦に乗り、七年戦争の海戦にも加わった。その間に英語の読み書きを覚え、ロンドンで洗礼を受けた。仕えていれば自由になれると信じていたが、戦争が終わると、パスカルは彼をカリブ海に送り、別の主人に売り渡した。
新しい主人は、カリブ海のモントセラト島のクエーカー教徒の商人キングだった。キングは彼を船での商売に使い、イクイアーノは、航海の合間に自分でも小さな商売をして、少しずつお金を貯めた。1766年、彼は40ポンドで自分の身柄を買い取り、自由になった。

自由になったあとも、彼は船乗りとして世界を回った。地中海へも、北極海を探検する船にも乗った。やがてロンドンに住みつき、奴隷貿易の廃止を求める運動に加わった。1783年、奴隷船ゾング号で、船長が保険金のために百数十人の奴隷を生きたまま海に投げ込んだ事件が起きると、彼はそれを運動家に知らせ、世に訴える助けをした。ロンドンに住む黒人たちを西アフリカのシエラレオネに移住させる計画にも加わったが、計画の不正を告発して、その役を解かれている。
本は、こうした生涯を語りながら、奴隷貿易と奴隷制がいかに残酷で、キリスト教の教えに反するかを訴えた。同時に、アフリカの人々が、ヨーロッパの人々と同じように知性と心を持つ人間であることを、本そのものが示していた。予約して本を買った人の名簿には、王子や貴族、奴隷制に反対する議員たちの名が並んでいる。
本は売れた。イクイアーノが生きている間に9回版を重ね、オランダ語やドイツ語にも訳された。彼は自らイギリスやアイルランドの各地を回り、講演をしながら本を売った。廃止運動の人々は、奴隷貿易の実態を示す証言として、この本を議会の内外で使った。黒人が自分の言葉で書いた本が、それだけで、奴隷制を支える偏見への反論になった。1792年、彼はイギリス人の女性と結婚し、二人の娘をもうけた。
1797年、イクイアーノはロンドンで死んだ。50代の初めだったとされる。その10年後の1807年、イギリスの議会は、奴隷貿易を禁止する法を通した。奴隷制そのものが廃止されるのは、さらに後の1833年である(イギリスの奴隷制廃止法)。
20世紀の末になって、この本に新しい疑問が投げかけられた。ある研究者が、ロンドンの教会の洗礼の記録と、北極探検の船の乗組員名簿に、彼の生まれた場所が「カロライナ」と書かれているのを見つけたのである。もしそうなら、アフリカでの子ども時代と船倉の描写は、本人の体験ではなく、他のアフリカ人から聞いた話をもとに書いたことになる。一方で、記録を書いた側の聞き違いや思い込みかもしれず、本の中のアフリカの描写には、本人の体験でなければ書けないような細部が多いという反論もある。この論争は、まだ決着していない。
いずれにせよ、この本が奴隷貿易の廃止の議論を動かしたことは変わらない。いまでは、奴隷とされた人自身が書いた記録の古典として、大西洋の両側で広く読まれている。