できごと

プロイセンの義務教育

Prussian education system
AD1763年
重要度 5
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概要

フリードリヒ2世が一般地方学事通則を出し、5歳から13歳の子に就学を義務づけた。七年戦争の直後である。目的は、読み書きできる兵士と、従順で勤勉な臣民を作ることだった。教員の養成、教科の指定、そして出席の強制。19世紀に整備が進み、学年制、時間割、卒業試験(アビトゥア)が揃った。この模型が、日本、アメリカ、フランス、そして世界中に写された。近代の学校の形は、ほとんどがここに遡る。

場所

ベルリン
52.52°N 13.40°E · ドイツ

本文

子どもを学校へ通わせることを親の義務とする考えは、宗教改革にさかのぼる。1524年、マルティン・ルターはドイツの都市の参事会員たちに宛てた文書で、学校を建てるよう訴えた。カトリックでは聖書を読み解くのは聖職者の役目だったが、ルターはすべての信徒が自分で聖書を読むことを求めた。そのためには、誰もが字を読めなければならない。彼は女子にも教育が必要だと説き、親が子を学校へやらないなら、当局が強いてでも通わせるべきだとまで書いている。彼自身が訳したドイツ語の聖書(ルターのドイツ語訳聖書)が、その教材になった。

この考えは、プロテスタントの小さな領邦で少しずつ形になった。1592年、プファルツ=ツヴァイブリュッケン公国が就学の義務を定め、これがヨーロッパで最初の例とされる。1619年にはヴァイマル公国が6歳から12歳までのすべての子に就学を命じた。1642年、ゴータ公国のエルンスト敬虔公は、教える中身から時間の使い方までを細かく定めた学校規程を出し、「ゴータの農民は他国の貴族より学がある」と言われたと伝えられる。

ケーニヒスベルクのフリードリヒス・コレギウム
ケーニヒスベルクのフリードリヒス・コレギウムWikimedia Commons Herausgeber: Landsmannschaft Ostpreußen e.V. Parkallee 84/86 20144 Hamburg HRA VR4551 Ust-ID-Nr.: DE118718969 Bundesgesc · Public domain

北の国スウェーデンでは、1686年の教会法で、すべての国民に字を読めることが求められた。牧師が家々を回って家族が読めるかを試し、読めない者は聖餐や結婚を許されないこともあった。その結果、スウェーデンとフィンランドは18世紀にはヨーロッパで最も読める人の多い地域になった。ただし求められたのは読むことで、書く力は含まれていなかった。

プロイセンでは、1717年に「兵隊王」と呼ばれたフリードリヒ・ヴィルヘルム1世が就学の義務を布告し、1736年には学校を維持するための基金も設けた。だが、実際にはほとんど守られていなかった。

ヴィルヘルムとヤーコプのグリム兄弟(1855年の絵)
ヴィルヘルムとヤーコプのグリム兄弟(1855年の絵)Wikimedia Commons Elisabeth Baumann · Public domain

1763年、その息子のフリードリヒ2世(大王)が「一般地方学事通則」を出す。起草したのは、ベルリンで実業学校と教員の養成所を開いていた聖職者ヨハン・ユリウス・ヘッカーである。5歳から13歳か14歳までのすべての子に学校へ通う義務を課し、学校の無い村には学校を作らせた。教員は資格のある者に限り、教える科目を読み、書き、算術、宗教、歌と定めた。出席は記録され、休ませた親には罰金が科される。貧しい家の授業料は免除された。

この年は、七年戦争が終わった年だった。プロイセンはオーストリア、フランス、ロシアを相手に7年戦い、かろうじて生き残った。人口の1割近くを失い、国土は荒れ、財政は疲れ切っていた。1762年にロシアの女帝エリザヴェータが急死し、ロシアが戦線を離れるという幸運がなければ、プロイセンは滅んでいたかもしれない。疲弊した国を立て直す手立ての一つが、学校だった。

目的ははっきりしていた。一つは兵士である。字が読める兵士は命令を理解し、書類を扱え、訓練の覚えも早い。プロイセン軍の強さは規律と画一的な訓練にあり、それには読み書きが役に立つ。二つ目は臣民で、神を畏れ、上に立つ者に従い、勤勉で時間を守る国民を育てることが、当時の学校の文書に繰り返し書かれている。三つ目は、読み書きのできる下級の役人や村役人を得ることだった。そこに、個人が聖書を読んで内面の信仰を深めることを重んじた敬虔主義の影響も重なっていた。フリードリヒ2世自身は啓蒙思想に親しみ、信仰には冷めた君主だったが、宗教の教えが統治に役立つことは認めていた。

もっとも、布告はすぐには働かなかった。教員が足りず、多くの村では退役した下士官が教壇に立った。王が古参の兵に職を与えるためにそうさせた面もある。校舎は無く、親は子を畑や家の仕事に使い、罰金も満足に取り立てられなかった。

制度が本当に整ったのは、手痛い敗北の後である。1806年、プロイセン軍はイエナとアウエルシュテットでナポレオン・ボナパルトに大敗し、翌年の講和で領土の半分を失った。占領下のベルリンで、哲学者フィヒテは連続講演『ドイツ国民に告ぐ』を行い、国が立ち直る道は新しい教育によって国民をつくり直すことしかない、と説いた。

1809年から1年半ほど、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトが内務省の教育部門を率いた。初等学校からギムナジウム、大学へと進む段階の体系が整えられ、教員は国の試験に合格して資格を得る専門職になった。1788年に始まっていたギムナジウムの卒業試験アビトゥアは1812年に改められ、大学へ進む関門として定着していく。1810年にはベルリン大学が開かれた(フンボルトの大学)。

19世紀の半ば、プロイセンの学校は世界の手本と見なされるようになった。年齢で学年を分けて進級させ、教科ごとに時間を区切って鐘で入れ替える。一人の教師が大勢の生徒に同じことを同時に教え、教科書をそろえ、教員を養成し、試験と成績を付け、卒業証書を出す。そして、それを義務として強いる。いま私たちが「学校」と聞いて思い浮かべる姿が、ほぼそろっていた。

この型は各国へ写された。1843年、マサチューセッツ州の教育行政を率いていたホーレス・マンはプロイセンを視察して詳しい報告書を書き、税で運営する公立学校の運動を進めた。それがアメリカの公教育の土台になる。フランスは1833年のギゾー法を経て、1881年から82年のジュール・フェリー法で、無償・義務・世俗の初等教育を定めた。日本の1872年の学制(学制の公布)はフランスの制度を多く参考にしたが、1886年に文部大臣の森有礼が学校令を出してからは、師範学校や帝国大学の制度でドイツの型を強く参照した。

20世紀に入ると、この型への批判も繰り返されるようになる。年齢で区切り、同じ中身を同じ速さで教える画一性。鐘と時間割と規律で動き、標準化された「製品」を送り出す工場のような仕組み。主体性よりも従順を育てるという批判もあれば、試験と成績が子どもを選り分けて親の階層をそのまま次の世代へ受け渡す装置になっている、という批判もある。イヴァン・イリイチの『脱学校の社会』(1971年)や、ブルデューらの『再生産』(1970年)は、その代表的な議論である。

それでも、この仕組みがすべての子が読み書きできる社会を実現したことは否定できない。推計によれば、世界の成人で読み書きのできる人の割合は、1820年には1割強、1900年でも2割ほどだったが、2020年には9割近くに達している。その多くは、税で運営され、義務で、学年に分かれた学校によって成し遂げられた。

いま、世界のほとんどどこの国でも、学校の姿は驚くほどよく似ている。年齢で分けた教室、時間割、教科書、試験、卒業証書。その原型の一つが、七年戦争で疲れ切ったプロイセンが、強い兵士と従順な臣民を求めて出した1763年の布告にある。

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