できごと

パリ・コミューン

Paris Commune
AD1871年3月18日
重要度 5
パリ・コミューンに関わる図版:Barricade18March1871 (cropped)
Barricade18March1871 (cropped) Wikimedia Commons Public domain

概要

普仏戦争でパリは4か月囲まれて降伏し、国民議会はプロイセンに屈した。3月18日、モンマルトルの大砲を取りに来た政府軍に、パリの国民衛兵が立った。72日。選挙、政教分離、夜のパン職人の労働禁止、女性の参加。ヴェルサイユの政府軍が5月21日に入り、1週間。「血の週間」。2万人が殺され、4万人が裁かれ、ニューカレドニアへ。「労働者の政府の最初の形」とマルクスは書いた。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

カール・マルクスAD1818年5月5日–AD1883年3月14日 · 内乱を書いた

本文

1870年7月、フランスの皇帝ナポレオン3世は、ビスマルクの率いるプロイセンに戦争を仕掛け、9月2日、スダン(セダン)の戦いで自ら捕虜になった。知らせが届くと、パリの民衆は議会に押しかけ、9月4日、帝政の終わりと共和政を宣言した。新しい国防政府は戦いを続けることにしたが、9月19日、プロイセンとドイツの諸邦の軍はパリを包囲した。

包囲は4か月あまり続いた。パリの人々は馬を食べ、犬や猫やネズミを食べ、植物園の動物まで食べた。動物園の2頭の象も肉屋に売られた。手紙は気球に載せて包囲の外へ送られた。町を守ったのは、パリの男たちが加わる市民の民兵、国民衛兵である。その数は30万人ほどにのぼり、わずかな日当が、仕事を失った労働者の家族の暮らしを支えていた。だが政府は国民衛兵を本気で戦わせようとせず、1871年1月28日、休戦を結んだ。パリの多くの人々は、裏切られたと感じた。

1871年3月18日、国民軍が築いたバリケード
1871年3月18日、国民軍が築いたバリケードWikimedia Commons Public domain

2月の国民議会の選挙で、地方の農民たちは早い講和を望み、王党派の議員を多数選んだ。議会はボルドーで開かれ、老練な政治家ティエールを行政の長に選んだ。ドイツとの仮の講和で、フランスはアルザスと、ロレーヌの一部を失い、50億フランの賠償を約束した。3月1日、ドイツ軍はパリの一部を行進して入城し、わずかな日数で去った。議会はさらに、パリではなくヴェルサイユに移ることを決め、包囲のあいだ猶予されていた家賃や借金の支払いの期限を元に戻し、国民衛兵の日当も打ち切ろうとした。共和派で貧しい人の多いパリと、王党派の多い議会との溝は深まる一方だった。

3月18日の未明、ティエールは軍をモンマルトルの丘とベルヴィルに送った。そこには国民衛兵の大砲が置かれていた。包囲のあいだにパリの市民の募金で作られた大砲で、人々は自分たちのものだと考えていた。夜が明けると、女たちが集まってきて兵士たちを取り囲み、話しかけ、パンを差し出した。群衆に向けて撃てと命じられた兵士たちは、撃たなかった。ルコント将軍と、以前に民衆を弾圧したことのあるクレマン=トマ将軍が群衆に捕らえられ、その日のうちに殺された。ティエールは政府の機関と軍をすべてヴェルサイユへ引き上げさせた。

ナポレオン3世
ナポレオン3世Wikimedia Commons Franz Xaver Winterhalter · Public domain

パリに残ったのは、国民衛兵の中央委員会だった。3月26日に選挙が行われ、28日、市庁舎の前で、パリ・コミューンの成立が宣言された。コミューンとは、もとは自治の町を意味する言葉である。選ばれた評議員には、革命家ブランキの流れをくむ人々、無政府主義の思想家プルードンに影響された労働者、フランス革命のジャコバンを理想とする急進派、そして国際労働者協会の会員たちがいた。考え方の違う人々の寄り合いで、会議はしばしば対立した。

72日のあいだに、コミューンは数多くの布告を出した。常備軍をやめて国民衛兵だけを軍とし、教会と国家を分け、教会の財産を国のものとした。学校から宗教の教育を外し、無償で通えるようにしようとした。パン屋の職人の夜の労働を禁じ、経営者が逃げ出して放置された工場を労働者の協同組合に任せることを決めた。包囲のあいだの家賃を帳消しにし、質屋に入れた生活用品を無料で返させた。国民衛兵の一部はギロチンを広場で焼き、ナポレオンの戦勝を記念するヴァンドーム広場の円柱は、引き倒された。この円柱の破壊は、評議員だった画家クールベが言い出したとされ、彼はのちにその再建費用の支払いを命じられている。女性たちも積極的に加わり、教師のルイーズ・ミシェルは銃を取って戦い、ロシア生まれのエリザベート・ドミトリエフは女性同盟を作って働く女性の組織を作った。ただし、コミューンは女性に選挙権を与えなかった。

開明派ボナパルティスト ナポレオン公
開明派ボナパルティスト ナポレオン公Wikimedia Commons Unidentified photographer · Public domain

4月、ヴェルサイユの政府軍はパリへの攻撃を始めた。ビスマルクは、捕虜にしていたフランス兵を早めに返して、ティエールの軍を増やすことを認めた。ドイツにとっても、パリの革命は好ましいものではなかった。5月21日、政府軍はパリ西部のサン=クルー門から市内に入った。

それから1週間は「血の週間」と呼ばれる。国民衛兵は地区ごとにバリケードを築いて戦ったが、まとまった指揮を欠き、政府軍は西から東へ、一つずつバリケードを落としていった。追いつめられたコミューンの側は、テュイルリー宮殿や市庁舎に火を放ち、人質にしていたパリ大司教ダルボワらを銃殺した。政府軍は、捕らえた者を裁判なしにその場で撃ち殺した。手に火薬の跡がある者、国民衛兵の服の切れ端を着ている者が、次々に壁の前に立たされた。5月28日、最後の抵抗が東部のペール・ラシェーズ墓地で終わり、捕らえられた147人がその墓地の壁の前で銃殺された。この壁はいまも「連盟兵の壁」と呼ばれている。

プルードン派労働者アンリ・トラン(英語版)/インターナショナルの初期の指導者
プルードン派労働者アンリ・トラン(英語版)/インターナショナルの初期の指導者Wikimedia Commons Paul Bacard · Public domain

血の週間で殺された人の数は、はっきりしない。長く1万7000人から2万人あまりと言われてきたが、近年の研究では、それより少ない数千人から1万人ほどとする推計も出されている。どちらにせよ、フランスの首都が自国の軍によって経験した最悪の殺戮だった。4万人ほどが逮捕されて軍法会議にかけられ、数千人が南太平洋のニューカレドニアへ流刑になった。ルイーズ・ミシェルもその一人だった。生き残った人々が恩赦を受けてフランスに戻れたのは、1880年のことである。

布地の図案描きを仕事とし、コミューンの評議員にも選ばれた詩人ウジェーヌ・ポティエは、弾圧のさなかに身を隠しながら、のちに「インターナショナル」として世界中で歌われる詩を書いた。ロンドンにいたカール・マルクスは、コミューンが倒れた直後に『フランスにおける内乱』を書き、コミューンを、労働者が自分たちの手で政治を行う、ついに発見された政治の形だと評した。のちにレーニンはロシア革命の前後にこの本を読み込み、コミューンが敗れた理由を学ぼうとした。一方、勝った側は、モンマルトルの丘の上に、フランスが犯した罪の償いとして、白い大聖堂サクレ・クールを建てることを決めた。大砲をめぐって革命が始まったその丘である。パリの人々の多くは、いまもこの聖堂を、コミューンを鎮めた側の記念碑として見ている。

動画(1)

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