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Event / できごと

ラドクリフ・ライン

The Radcliffe Line
AD1947年8月17日
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1947年8月17日の版図を描いています(38勢力)

概要

インドの分割にあたり、境界の画定を任されたのは、シリル・ラドクリフという弁護士だった。彼はインドへ行ったことがなかった。中立であるという理由で選ばれた。与えられた期間は5週間。彼は古い地図と国勢調査の数字を見て、ベンガルとパンジャーブに線を引いた。線が公表されたのは独立の2日後である。それまで、誰も自分がどちらの国になるか知らなかった。1000万人以上が移動し、数十万人から100万人以上が死んだ。彼は報酬を受け取らず、作業の記録を焼いた。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

**決定**。

**1947年2月**、イギリス政府が、インドからの撤退を発表した。

期限——**1948年6月**。

**1947年3月**、**ルイス・マウントバッテン**が、最後の総督として着任した。

**彼は、期限を、前倒しした**。

**1947年8月15日**。

(**5か月**である。)

(理由として、彼が挙げたもの——**暴動が、既に始まっている**。長引かせれば、より悪化する。

——**この判断の是非は、いまも激しく議論されている**。)

**分割**。

**インド**と、**パキスタン**。

そして——**二つの州を、割らねばならない**。

**パンジャーブ**(西)と、**ベンガル**(東)。

(いずれも、ヒンドゥー、ムスリム、シク(パンジャーブ)が、**混在して住んでいる**。

——**どこで切っても、少数派が取り残される**。)

**ラドクリフ**。

**シリル・ジョン・ラドクリフ**(1899〜1977)。

**弁護士**である。

(オックスフォード、そしてロンドンの法曹院。

**極めて有能な法廷弁護士**として知られていた。

戦時中、情報省の総局長を務めた。)

**インドへ、行ったことがなかった**。

(——**それが、選ばれた理由である**。

「**利害関係がなく、中立である**」。

〈両方の政党〈国民会議派とムスリム連盟〉が、彼を受け入れた。彼らは、インドを知る者を信用しなかった。〉)

**1947年7月8日**、デリーに到着。

**期限**——**8月15日**(後に、事実上、8月13日)。

**5週間**である。

**作業**。

彼が持っていたもの——

- **地図**(旧式のもの。一部は数十年前の版)。 - **1941年の国勢調査**(宗教別の人口)。 - 地租の記録。 - そして、**両党から提出された、それぞれの主張**。

**彼が持っていなかったもの**——

- **現地を見る時間**。

(彼は、**一度も、境界の予定地を視察していない**。デリーの官舎から、ほとんど出なかった。

暑さで体調を崩した。空調のない部屋で、扇風機だけで作業した。)

- **正確な地図**。 - **人口の、村落単位の詳細**。 - そして、**地形と、水利と、道路と、鉄道の実態**。

(**灌漑用水路**が、決定的に重要だった。パンジャーブは、巨大な灌漑の網の上に成り立っている。

——**線が、水路を切れば、下流の土地が死ぬ**。

彼は、それを考慮しようとした。**時間が、足りなかった**。)

**委員会**。

各州について、**4人の判事**(ヒンドゥー2、ムスリム2)と、**議長ラドクリフ**。

**判事たちは、それぞれの側を主張し、合意しなかった**。

**すべての決定が、ラドクリフ一人の裁定になった**。

(——**それが、最初から予定されていた構造である**。

彼は、後に述べている。「**私は、彼らが合意しないことを前提に、そこにいた**」。)

**公表**。

**線は、8月12日に完成した**。

**マウントバッテンは、それを、独立の日まで公表しなかった**。

**公表——8月17日**。

(**独立の2日後**である。)

(理由として、しばしば挙げられるもの——

独立の祝典を、混乱で汚したくなかった。

そして、**発表の直後に暴動が起きた場合、その責任がイギリス軍に及ぶことを避けたかった**。

〈マウントバッテン自身は、後に、決定は自分ではなくラドクリフのものであり、公表の時期についても正当化を試みている。〉)

**つまり**。

**8月14日と15日、独立の日**。

**人々は、自分がどちらの国の住人になるのか、知らなかった**。

(旗が揚がり、演説が行われ、祝賀があった。

**線は、まだ公表されていない**。

——ラホールは? アムリトサルは? カルカッタは?

〈**ラホール**は、パキスタンになった。人口の多数がムスリムだった。しかし、市の財産と事業の多くをヒンドゥーとシクが持っていた。

**アムリトサル**——シクの聖地〈黄金寺院〉——は、インドになった。〉)

**そして**。

**移動が、始まった**。

**規模**。

**1,000万人から1,800万人**が、移動した。

(推計に幅がある。**史上最大級の、短期間の人口移動**である。)

**死者**。

**20万人から200万人**。

(推計の幅が、極めて大きい。**誰も、数えていない**。

近年の研究では、**100万人前後**とする推計が多い。)

**何が起きたか**。

- **列車**。

(**難民を乗せた列車が、襲われた**。

到着したとき、**乗客が全員死んでいる列車**が、何本もあった。

「**幽霊列車**」と呼ばれた。〈両方向で起きた。〉)

- **村の襲撃**。 - **女性への暴力**。

(**推定7万5,000人から10万人**の女性が、誘拐され、あるいは性暴力を受けたとされる。

——そして、**両国の政府が、後に「回収」の事業を行った**。

〈相手国にいる自国の宗教の女性を、探し出して連れ戻す。

**しかし、多くの女性が、既に新しい家族を作っていた**。そして、戻っても、実家に受け入れられないことが多かった。

——**彼女たちの意志は、ほとんど問われなかった**。ウルワシ・ブターリアが『沈黙の向こう側』(1998年)で、この問題を、聞き取りによって記録した。〉)

- そして、**カシミール**。

(藩王がヒンドゥー、住民の多数がムスリム。**帰属が決まらなかった**。

——**1947年10月、第一次印パ戦争**。

以後、**1965年、1971年、1999年**。そして、いまも係争が続いている。〉)

**ラドクリフ**。

彼は、**8月17日、線が公表された日に、インドを発った**。

**報酬——2,000ポンド(一説に3,000ポンド)を、受け取らなかった**。

(辞退した。)

そして、**作業の記録と、書類を、焼いた**。

(——理由を、彼は明確に述べていない。

推測されること。**責任の追及を避けるため**。あるいは、**個人の判断の痕跡を残さないため**。

〈彼は、後に、こう述べた。「**私は、あの地の人々に、あまりに大きな害を与えたので、二度と行けない**」。〉)

(彼は、その後、イギリスで法曹の要職を歴任し、貴族に叙された。

——そして、**インドと、パキスタンには、二度と行かなかった**。)

**W・H・オーデン**。

詩人が、1966年、この事件について詩を書いた。

**「Partition」**(分割)。

「**彼らが与えた地図は、旧く、国勢調査はほぼ確実に誤っていた**。

**しかし、それを確かめる時間はなかった。そして、係争地を視察する時間も、**

……

**彼が線を引き終えた翌日、彼は船で出発した。慌ただしく、そして正当に。**

**なぜなら、彼は、撃たれるかもしれないと、忠告されていたからである**」。

**そして**。

いま、その線は、**インドとパキスタン**、そして**インドとバングラデシュ**の国境である。

(1971年、東パキスタンが独立してバングラデシュになった。)

**世界で最も軍事化された国境の一つ**である。

そして、その大半が——**5週間で、地図を見ながら、引かれた**。

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