概要
インドの分割にあたり、境界の画定を任されたのは、シリル・ラドクリフという弁護士だった。彼はインドへ行ったことがなかった。中立であるという理由で選ばれた。与えられた期間は5週間。彼は古い地図と国勢調査の数字を見て、ベンガルとパンジャーブに線を引いた。線が公表されたのは独立の2日後である。それまで、誰も自分がどちらの国になるか知らなかった。1000万人以上が移動し、数十万人から100万人以上が死んだ。彼は報酬を受け取らず、作業の記録を焼いた。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
**決定**。
**1947年2月**、イギリス政府が、インドからの撤退を発表した。
期限——**1948年6月**。
**1947年3月**、**ルイス・マウントバッテン**が、最後の総督として着任した。
**彼は、期限を、前倒しした**。
**1947年8月15日**。
(**5か月**である。)
(理由として、彼が挙げたもの——**暴動が、既に始まっている**。長引かせれば、より悪化する。
——**この判断の是非は、いまも激しく議論されている**。)
**分割**。
**インド**と、**パキスタン**。
そして——**二つの州を、割らねばならない**。
**パンジャーブ**(西)と、**ベンガル**(東)。
(いずれも、ヒンドゥー、ムスリム、シク(パンジャーブ)が、**混在して住んでいる**。
——**どこで切っても、少数派が取り残される**。)
**ラドクリフ**。
**シリル・ジョン・ラドクリフ**(1899〜1977)。
**弁護士**である。
(オックスフォード、そしてロンドンの法曹院。
**極めて有能な法廷弁護士**として知られていた。
戦時中、情報省の総局長を務めた。)
**インドへ、行ったことがなかった**。
(——**それが、選ばれた理由である**。
「**利害関係がなく、中立である**」。
〈両方の政党〈国民会議派とムスリム連盟〉が、彼を受け入れた。彼らは、インドを知る者を信用しなかった。〉)
**1947年7月8日**、デリーに到着。
**期限**——**8月15日**(後に、事実上、8月13日)。
**5週間**である。
**作業**。
彼が持っていたもの——
- **地図**(旧式のもの。一部は数十年前の版)。 - **1941年の国勢調査**(宗教別の人口)。 - 地租の記録。 - そして、**両党から提出された、それぞれの主張**。
**彼が持っていなかったもの**——
- **現地を見る時間**。
(彼は、**一度も、境界の予定地を視察していない**。デリーの官舎から、ほとんど出なかった。
暑さで体調を崩した。空調のない部屋で、扇風機だけで作業した。)
- **正確な地図**。 - **人口の、村落単位の詳細**。 - そして、**地形と、水利と、道路と、鉄道の実態**。
(**灌漑用水路**が、決定的に重要だった。パンジャーブは、巨大な灌漑の網の上に成り立っている。
——**線が、水路を切れば、下流の土地が死ぬ**。
彼は、それを考慮しようとした。**時間が、足りなかった**。)
**委員会**。
各州について、**4人の判事**(ヒンドゥー2、ムスリム2)と、**議長ラドクリフ**。
**判事たちは、それぞれの側を主張し、合意しなかった**。
**すべての決定が、ラドクリフ一人の裁定になった**。
(——**それが、最初から予定されていた構造である**。
彼は、後に述べている。「**私は、彼らが合意しないことを前提に、そこにいた**」。)
**公表**。
**線は、8月12日に完成した**。
**マウントバッテンは、それを、独立の日まで公表しなかった**。
**公表——8月17日**。
(**独立の2日後**である。)
(理由として、しばしば挙げられるもの——
独立の祝典を、混乱で汚したくなかった。
そして、**発表の直後に暴動が起きた場合、その責任がイギリス軍に及ぶことを避けたかった**。
〈マウントバッテン自身は、後に、決定は自分ではなくラドクリフのものであり、公表の時期についても正当化を試みている。〉)
**つまり**。
**8月14日と15日、独立の日**。
**人々は、自分がどちらの国の住人になるのか、知らなかった**。
(旗が揚がり、演説が行われ、祝賀があった。
**線は、まだ公表されていない**。
——ラホールは? アムリトサルは? カルカッタは?
〈**ラホール**は、パキスタンになった。人口の多数がムスリムだった。しかし、市の財産と事業の多くをヒンドゥーとシクが持っていた。
**アムリトサル**——シクの聖地〈黄金寺院〉——は、インドになった。〉)
**そして**。
**移動が、始まった**。
**規模**。
**1,000万人から1,800万人**が、移動した。
(推計に幅がある。**史上最大級の、短期間の人口移動**である。)
**死者**。
**20万人から200万人**。
(推計の幅が、極めて大きい。**誰も、数えていない**。
近年の研究では、**100万人前後**とする推計が多い。)
**何が起きたか**。
- **列車**。
(**難民を乗せた列車が、襲われた**。
到着したとき、**乗客が全員死んでいる列車**が、何本もあった。
「**幽霊列車**」と呼ばれた。〈両方向で起きた。〉)
- **村の襲撃**。 - **女性への暴力**。
(**推定7万5,000人から10万人**の女性が、誘拐され、あるいは性暴力を受けたとされる。
——そして、**両国の政府が、後に「回収」の事業を行った**。
〈相手国にいる自国の宗教の女性を、探し出して連れ戻す。
**しかし、多くの女性が、既に新しい家族を作っていた**。そして、戻っても、実家に受け入れられないことが多かった。
——**彼女たちの意志は、ほとんど問われなかった**。ウルワシ・ブターリアが『沈黙の向こう側』(1998年)で、この問題を、聞き取りによって記録した。〉)
- そして、**カシミール**。
(藩王がヒンドゥー、住民の多数がムスリム。**帰属が決まらなかった**。
——**1947年10月、第一次印パ戦争**。
以後、**1965年、1971年、1999年**。そして、いまも係争が続いている。〉)
**ラドクリフ**。
彼は、**8月17日、線が公表された日に、インドを発った**。
**報酬——2,000ポンド(一説に3,000ポンド)を、受け取らなかった**。
(辞退した。)
そして、**作業の記録と、書類を、焼いた**。
(——理由を、彼は明確に述べていない。
推測されること。**責任の追及を避けるため**。あるいは、**個人の判断の痕跡を残さないため**。
〈彼は、後に、こう述べた。「**私は、あの地の人々に、あまりに大きな害を与えたので、二度と行けない**」。〉)
(彼は、その後、イギリスで法曹の要職を歴任し、貴族に叙された。
——そして、**インドと、パキスタンには、二度と行かなかった**。)
**W・H・オーデン**。
詩人が、1966年、この事件について詩を書いた。
**「Partition」**(分割)。
「**彼らが与えた地図は、旧く、国勢調査はほぼ確実に誤っていた**。
**しかし、それを確かめる時間はなかった。そして、係争地を視察する時間も、**
……
**彼が線を引き終えた翌日、彼は船で出発した。慌ただしく、そして正当に。**
**なぜなら、彼は、撃たれるかもしれないと、忠告されていたからである**」。
**そして**。
いま、その線は、**インドとパキスタン**、そして**インドとバングラデシュ**の国境である。
(1971年、東パキスタンが独立してバングラデシュになった。)
**世界で最も軍事化された国境の一つ**である。
そして、その大半が——**5週間で、地図を見ながら、引かれた**。