できごと

ハスモン朝の独立

Hasmonean independence
BC140年
重要度 4
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概要

マカバイの反乱から27年、シモンがセレウコス朝の税を止め、大集会が「永遠の大祭司にして指導者」と決めた。王でなく祭司の王朝。80年。ヨハネ・ヒルカノスがイドマヤを改宗させ、その孫がヘロデ。ポンペイウスが来て終わった。

場所

エルサレム
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ

関わった人(1)

シモン・タッシ?–BC135年 · 指導者

本文

紀元前167年、セレウコス朝の王アンティオコス4世エピファネスがエルサレムの神殿でユダヤの律法による礼拝を禁じると、モデインの村の祭司マタティアスとその息子たちが立ち上がった(マカバイの反乱)。三男のユダは「マカバイ」(槌)と呼ばれ、紀元前164年に神殿を取り戻して清めた。いまも冬に8日間祝われるハヌカは、このときの神殿の奉献を記念する祭りである。だが、ユダ・マカバイは紀元前160年に戦死し、独立はまだ遠かった。

ユダのあとを継いだ弟のヨナタンは、武力よりも、セレウコス朝の王位争いを利用した。王位を争う者たちは、ユダヤの兵を味方につけようと競って特権を差し出した。紀元前152年、王位を狙うアレクサンドロス・バラスは、ヨナタンを大祭司に任じた。だが、マタティアスの家はハスモン家と呼ばれる祭司の家で、ソロモンの時代から大祭司を出してきたとされるツァドクの家系ではなかった。これを認めない人々もいた。死海のほとりのクムランで見つかった文書は、エルサレムの「悪しき祭司」を激しく非難しており、それをヨナタンかシモンと見る説がある。紀元前143年、ヨナタンはシリアの将軍トリュフォンに会談に誘い出されて捕らえられ、殺された。

ユダ・マカバイ
ユダ・マカバイWikimedia Commons Wojciech Stattler · Public domain

残った兄弟の最後の一人、シモン・タッシが指導者になった。シモンはトリュフォンと争っていた王デメトリオス2世の側につき、その見返りに、ユダヤから取り立てる貢ぎと税の免除を得た。『マカバイ記一』は、紀元前142年のこのことを「異邦人の軛がイスラエルから取り除かれた」と書き、人々は文書の日付を「大祭司シモンの第一年」と数え始めたという。翌年の紀元前141年には、エルサレムの中にセレウコス朝が置いていた砦アクラの守備兵が、飢えて明け渡した。

紀元前140年、祭司、民、長老たちの大集会が開かれた。決議は、シモンを「真の預言者が現れるまで」永遠の指導者にして大祭司とし、軍を率い、神殿と国を治め、すべての文書は彼の名で出すと定めた。決議は銅の板に刻まれて、神殿の境内の柱に掲げられたと『マカバイ記一』14章は伝える。シモンは王を名のらなかった。大祭司と「民の長」としての支配であり、王の称号は、ダビデの家系の者でなければ名のれないと考えられていたからだともいわれる。シモンは使節をローマに送り、ユダの代から結ばれていた友好の関係を新たにした。

ユダ・マカバイの勝利、ギュスターブ・ドレ画
ユダ・マカバイの勝利、ギュスターブ・ドレ画Wikimedia Commons Gustave Doré · Public domain

シモンの最期は、身内の裏切りだった。紀元前135年ごろ、エリコの近くのドクの砦で、娘婿のプトレマイオスが宴を開き、酔ったシモンと二人の息子を殺した。もう一人の息子ヨハネ・ヒルカノスは、そのときガザラ(ゲゼル)の町にいて難を逃れ、すぐにエルサレムに入って後を継いだ。

ヒルカノスの時代の初め、セレウコス朝の王アンティオコス7世がエルサレムを囲み、ユダヤはまた貢ぎを払う身に戻った。だが、王が紀元前129年にパルティアとの戦いで死ぬと、セレウコス朝は二度と立ち直らなかった。ヒルカノスは周りへ兵を進め、サマリア人の聖所だったゲリジム山の神殿を壊し、南のイドマヤの人々には、割礼を受けてユダヤの律法に従うよう迫った。ユダヤの歴史家ヨセフスはそう伝えている。このとき改宗したイドマヤ人の家から、のちにヘロデ大王が出る。

マッタティアス・アンティゴノスのプルタ青銅貨
マッタティアス・アンティゴノスのプルタ青銅貨Wikimedia Commons Antigone II (Mattathiah ; roi hasmonéen). Autorité émettrice de monnaie Hasmonéens (dynastie). Autorité émettrice de mon · Public domain

ヒルカノスの子アリストブロス1世は、紀元前104年に初めて王を名のった。その弟アレクサンドロス・ヤンナイオスは国を大きく広げたが、反対したファリサイ派の人々を厳しく弾圧し、800人を十字架にかけたとヨセフスは書いている。迫害から始まった祭司の家は、三代のうちに、ギリシア風の王と変わらない支配者になっていた。ヤンナイオスの妻サロメ・アレクサンドラが女王として治めたあと、二人の息子が王位を争い、それぞれがローマの将軍ポンペイウスを頼った。紀元前63年、ポンペイウスはエルサレムに入り(ポンペイウスのエルサレム占領)、ユダヤはローマの支配の下に置かれた。

シモンの大集会からポンペイウスまで、独立はおよそ80年続いたことになる。その後もハスモン家はローマの下で名目の地位を保ったが、紀元前37年、ローマに王と認められたヘロデがエルサレムを取り、最後の王アンティゴノスは処刑された。ヘロデはハスモン家の娘マリアンメを妻にして家柄の箔をつけたが、のちに彼女もその一族も殺している。

1843年のパレスチナとハウラーン周辺の地図(ウィリアム・ヒューズ画)
1843年のパレスチナとハウラーン周辺の地図(ウィリアム・ヒューズ画)Wikimedia Commons w:William Hughes (geographer) · Public domain

この独立の経緯を伝える『マカバイ記』は、ユダヤ教の聖書には入れられなかった。カトリックと正教会は正典とし、プロテスタントは外典として扱う。ハヌカの祭りが毎年祝われる一方で、その祭りのもとになった戦いの記録は、ユダヤ教の正典の外に置かれている。

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