第一インターナショナル

概要
セント・マーチンズ・ホール。イギリスの労働組合、フランスのプルードン派、イタリアのマッツィーニ派、ドイツの亡命者。国際労働者協会。マルクスが創立宣言と規約を書いた。「労働者階級の解放は労働者階級自身の仕事である」。バクーニンとマルクスが割れ、1872年、本部をニューヨークに移して、1876年、解散した。第二インターは1889年。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
カール・マルクスAD1818年5月5日–AD1883年3月14日 · 宣言を書いた本文
1863年、ロシアの支配に対してポーランドで蜂起が起こり、厳しく押しつぶされた。ロンドンとパリの労働者は、ポーランドを支える集会をともに開いた。顔を合わせたイギリスの労働組合の指導者たちには、もう一つの切実な関心があった。ストライキを打つと、雇い主が海の向こうから安い賃金で働く職人を連れてきて、ストライキを破ってしまう。国境を越えて労働者がつながらなければ、賃金も労働時間も守れない、という考えである。
1864年9月28日、ロンドンのロング・エーカーにあるセント・マーチンズ・ホールに、2000人ほどが集まった。イギリスの労働組合の指導者、フランスの職人たち(多くは、国家に頼らず協同組合と互いの助け合いで社会を変えようとするプルードンの考えに近かった)、イタリアの統一運動の指導者マッツィーニの支持者、ドイツやポーランドからの亡命者が顔をそろえた。こうして国際労働者協会、のちに第一インターナショナルと呼ばれる組織が生まれた。
ロンドンに亡命していたカール・マルクスも招かれ、壇上に黙って座っていた。彼は総評議会の一員に選ばれ、やがて創立宣言と暫定規約を自分で書くことになった。ほかの人の書いた草稿は使い物にならなかったと、マルクスは盟友フリードリヒ・エンゲルスへの手紙に書いている。創立宣言は、イギリスの富が増えても労働者の暮らしは良くならなかったことを数字で示し、10時間労働法と協同組合の成功を労働者の勝利として称えた。規約の冒頭には、労働者階級の解放は労働者階級自身の手でかちとられなければならない、という一文が置かれた。宣言の結びは、16年前の『共産党宣言』と同じく、万国の労働者に団結を呼びかける言葉だった。それでも全体は、マッツィーニ派やプルードン派を怒らせないよう、穏やかな調子に抑えられていた。

協会は毎年のように大会を開いた。1866年のジュネーヴ、1867年のローザンヌ、1868年のブリュッセル、1869年のバーゼルである。ブリュッセルとバーゼルで土地や鉄道を社会の共有にすべきだという決議が通り、私有の小さな財産を重んじるプルードン派は押されていった。ヨーロッパ各地のストライキに協会の名が掲げられ、政府や新聞はこれを巨大な陰謀の組織として恐れた。実際の会員と資金はずっと小さく、総評議会はいつも金に困っていた。
1868年、ロシアの革命家バクーニンが加わると、協会は大きく割れはじめる。バクーニンは、国家そのものを革命ですぐに廃止すべきだと説き、労働者が政党を作って国家の権力を握るというマルクスの考えに真っ向から反対した。1871年のパリ・コミューンは、両者に別々の教訓を与えた。マルクスは総評議会の名で『フランスの内乱』を書いてコミューンを擁護したが、イギリスの労働組合の指導者たちは、暴力の革命と同じに見られることを嫌って協会から離れていった。各国の政府は協会を弾圧し、フランスでは協会に加わること自体が罪とされた。

1872年、オランダのハーグで開かれた大会には、マルクス本人が出席した。大会はバクーニンらを除名し、総評議会をニューヨークに移すことを決めた。ヨーロッパでの主導権をバクーニン派に渡さないための、事実上の店じまいだった。除名された側はスイスで別の組織を作った。ニューヨークに移った総評議会はほとんど活動できないまま、1876年、フィラデルフィアで解散を決めた。
組織としての寿命は12年にすぎなかったが、国境を越えて労働者が手を結ぶという考えは残った。1889年、フランス革命の100年の年にパリで第二インターナショナルが作られ、アメリカの8時間労働の運動とヘイマーケット事件を記念して、5月1日を労働者の国際的な行動の日とすることを決めた。これがメーデーの始まりである。第二インターナショナルは1914年、各国の社会主義政党が自分の国の戦争を支持したことで崩れ、1919年にはモスクワで第三インターナショナル(コミンテルン)が作られる。いまも労働運動で歌われる「インターナショナル」は、パリ・コミューンの年にウジェーヌ・ポティエが詞を書き、のちに曲がつけられたものである。