概要
スーダンの船大工の子ムハンマド・アフマドが「マフディー(導かれた者)」を名乗り、エジプトとイギリスの支配に立った。10か月の包囲。イギリスは撤退のためにゴードンを送り、ゴードンは撤退せずに残った。救援隊の2日前に城が落ち、ゴードンは階段で槍に刺されて死んだ。首はマフディーの前に運ばれた。ロンドンは英雄の物語にした。13年後、キッチナーがオムドゥルマンで機関銃で報復した。
場所
15.50°N 32.56°E · スーダン
関わった人(2)
ムハンマド・アフマドAD1844年8月12日–AD1885年6月22日 · マフディーチャールズ・ゴードンAD1833年1月28日–AD1885年1月26日 · 死んだ本文
スーダンは1820年代からエジプト(オスマンの総督ムハンマド・アリーの家)の支配下にあった。徴税は苛烈で、象牙と奴隷の交易が経済の柱だった。1870年代、エジプトがヨーロッパの圧力で奴隷交易を禁じると、それで食べていた層が困窮した。同じ頃、エジプト自身が破産して、イギリスの管理下に入った。
ムハンマド・アフマド・イブン・アブドゥッラー。ドンゴラの船大工の家。サマーニーヤ教団の修行者。禁欲で知られた。1881年6月29日、白ナイルのアバ島で、自分が「マフディー」——世を正すために現れると信じられていた導かれた者——であると宣言した。
エジプトが逮捕に来た隊を、棍棒で撃退した。コルドファンへ移り、支持を集めた。「トルコ人(エジプト人)を追い出せ」。1883年11月、エル・オベイドの南で、イギリス人ウィリアム・ヒックス指揮のエジプト軍1万を、シェイカーンの森で全滅させた。生き残りは数百人。
イギリスは、スーダンを守る気がなかった(エジプトの財政のため)。「撤退させよう」。1884年1月、チャールズ・ゴードンをハルツームへ送った。彼はかつてスーダン総督で、住民の信頼があった。任務は、エジプト人の官吏と守備兵と、その家族の撤退。
ゴードンは2月に着いて、2500人ほどを北へ送った後、撤退をやめた。彼は残ることを選び、ロンドンに援軍を要求した。首相グラッドストンは拒み続けた。世論(新聞と、女王と、街の演説)が動いた。8月、ようやく救援隊を認め、ウルズリーがナイルを遡り始めたのは10月だった。
3月から包囲。10か月。食糧が尽き、ロバと鼠と、ヤシの繊維を食べた。ゴードンは日記を書き続けた。「私は毎日、蒸気船の煙を待っている」。
1885年1月26日、未明。マフディー軍が、水位の下がったナイルの浅瀬から城壁を越えた。ゴードンは総督府の階段で、槍で刺されて死んだ。52歳。マフディーは「殺すな、生け捕りにせよ」と命じていた、と伝える。首は切られて、木に吊るされた。
救援隊の先遣は、その2日後にハルツームの前に着いて、旗が違うのを見て、引き返した。
ロンドン。ヴィクトリア女王がグラッドストンに、暗号を使わない公開の電報で非難を送った。「ゴードン将軍の恐ろしい報せに、深い悲しみを覚えます。……あれほどの遅れは、なんと嘆かわしいことでしょう」。新聞は「GOM(偉大な老人)」だった首相を「MOG(ゴードンの殺人者)」と呼んだ。翌年、内閣が倒れた。
マフディーは6月にチフスで死んだ。後継のアブドゥッラーヒ(ハリーファ)の国家は13年続いた。1898年9月2日、オムドゥルマン。キッチナーの2万5000(マキシム機関銃20挺と砲)が、マフディー軍5万を、5時間で殺した。イギリス側の死者48、マフディー側1万1000。若い従軍記者ウィンストン・チャーチルが騎兵突撃に加わり、『河の戦争』に書いた。キッチナーはマフディーの墓を壊し、遺骨をナイルに捨て、頭蓋骨をインク壺にしようとした(女王が止めさせた)。