シャップの腕木通信
概要
塔の上に、動く腕木を組んだ装置を置く。腕の角度の組み合わせで196通りの符号を作り、望遠鏡で次の塔から読み取って、送り継ぐ。革命政府が採用し、1794年、リールからパリへ、オーストリア軍から町を奪還した知らせが、一時間ほどで届いた。ナポレオンが全土に広げ、最盛期には534の塔が5000キロを結んだ。天候と昼間に縛られ、内容は暗号だったので、送る側と受ける側しか意味が分からない。1850年代、電気の電信に取って代わられて消えた。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
18世紀の終わりまで、知らせが遠くへ届く速さは、人と馬と船の速さで決まっていた。狼煙や鐘や篝火は古くからあったが、それで伝えられるのは、あらかじめ決めておいた一つの合図だけである。敵が来た、とは伝えられても、敵は東から2000人、騎兵を連れて来た、とは伝えられない。好きな文を速く遠くへ送る方法は、どこにも無かった。
その方法を作ったのが、クロード・シャップ(1763〜1805年)である。フランス西部のブリュロンに生まれ、教会の聖職禄、つまり教会の職に付いた収入を得て暮らしていた。務めはほとんど無く、彼は物理の実験に時間を費やしていた。1789年に革命が起きると、教会の財産は国のものとなり、彼の収入は消えた。シャップは4人の兄弟とともに、新しい仕事として通信に取り組んだ。初めは電気を試したが、当時知られていた静電気では遠くまで届かない。音も試したが、やがて目で見る合図に落ち着いた。

1791年3月、故郷のブリュロンと16キロ離れたパルセとのあいだで、最初の公開実験が行われた。うまくいったものの、革命の混乱の中で装置は二度も群衆に壊された。閉じ込められた国王と王党派が連絡を取り合うための仕掛けではないか、と疑われたのである。立法議会の議員になっていた兄弟のイニャスが政府に働きかけ、1793年7月、国民公会はシャップの通信を採用することを決めた。
装置の仕組みはこうである。塔の上に柱を立て、そこに長さ4メートルほどの横木を渡す。横木の両端には、それぞれ2メートルほどの腕木が付く。横木は水平や垂直などの角度を取り、二本の腕木はそれぞれいくつもの角度に動かせる。組み合わせは196通りになり、そのうち92通りを文字や数を表す記号に使い、残りを操作のための合図に当てた。操作員は塔の中から滑車と綱で腕木を動かし、10キロから15キロほど先の次の塔の腕木を望遠鏡で読み取って、同じ形をそのまま作る。こうして記号が塔から塔へと送り継がれた。
記号の使い方にも工夫があった。二つの記号を組にして、一つ目で符号表の何ページか、二つ目でそのページの何行目かを示す。92かける92で8464通りの組み合わせがあり、表には語や言い回し、地名や人名が並んでいた。一回の信号で、一つの語どころか一つの句を送れる。しかも表を持たない者には、何を送っているのかまったく分からない。符号表は路線の両端の局にだけ渡され、途中の塔の操作員は、意味を知らないまま形をまねて送り継いだ。暗号の役目も兼ねていたのである。
1794年、最初の路線がパリと北の国境の町リールとのあいだにできあがった。230キロほどの距離に、15ほどの塔が並んだ。その年の8月、北の国境の町ル・ケノワをオーストリア軍から取り戻したという知らせが、この線を通ってパリに届いた。早馬なら丸一日以上かかる距離を、1時間ほどで伝えたとされる。知らせはその日のうちに国民公会で読み上げられ、議場は沸いた。新しい通信は、革命の政府にとって戦争を指揮するための武器になった。

路線はその後も延びた。1798年にはストラスブールまで、さらにブレストやトゥーロンへと線が引かれた。ナポレオン・ボナパルトはこの通信を軍事と行政の背骨とし、イタリアのミラノやヴェネツィア、ベルギーやオランダにまで線を延ばした。最も広がった1840年代には、534の塔が総延長5000キロほどを結び、フランスの主な都市をつないでいた。条件がよければ、一つの記号がパリからリールまで数分で通り抜け、トゥーロンまでも20分ほどで届いたという。もっとも、これは記号が線を通り抜ける速さであって、一通の知らせを送り終えるには、確かめ直しや待ち時間を含めてもっと長くかかった。
弱点もはっきりしていた。霧や雨や雪で次の塔が見えなければ送れない。北フランスの冬は霧が多く、使えない日が少なくなかった。夜も使えない。腕木に明かりを付けて夜に送る試みもあったが、実用にはならなかった。534の塔のそれぞれに操作員が要り、彼らは安い給料で、人里離れた塔の上から一日中、望遠鏡で隣の塔を見つめ続けた。そして、この通信は国が独り占めしていた。軍と行政の知らせだけを送り、商売に使うことは原則として許されなかった。のちにイギリスやアメリカで電気の電信が初めから商売に開かれたのと、対照的である。
国の独占のすき間を突いた事件もある。1834年から1836年にかけて、ボルドーの銀行家ブラン兄弟が操作員を買収し、パリの国債の相場の上がり下がりを、送信の中にわざと紛れ込ませた誤りの形で送らせた。誤りはすぐに取り消しの合図で打ち消されるが、途中の塔を見張る仲間には読み取れる。兄弟は郵便より何日も早く、ボルドーでパリの相場を知り、取引で儲けた。発覚したのは2年後で、裁判では、当時の法にこれを罰する定めが無かったため罪を問われなかった。通信網を乗っ取った最初の不正の一つとして、いまもよく引かれる話である。
発明者の最期は痛ましかった。腕木通信は自分が先に考えたものだと主張する者が次々に現れ、シャップは反論と争いに疲れはてた。病にも苦しみ、心を病んだ彼は、1805年1月、パリの屋敷の井戸に身を投げて死んだ。41歳だった。ペール・ラシェーズ墓地にある彼の墓には、腕木通信の装置が刻まれている。
腕木通信を終わらせたのは、電気だった。1844年、アメリカでワシントンとボルティモアのあいだにモールスの電信が開通する。フランスでも1840年代の半ばから電線が引かれ始め、腕木の塔は次々に役目を終えた。1850年代の半ばには、最後の線も閉じられた。60年ほど続いた通信網だった。
残ったものもある。シャップは当初、この装置を「速く書くもの」という意味の名で呼ぼうとしたが、友人の勧めで「遠くに書くもの」を意味するテレグラフという名にした。のちに電気で送る通信が生まれたとき、それは電気のテレグラフと呼ばれ、やがて「電気の」が落ちて、テレグラフ(電信)の名を引き継いだ。フランス各地には、いまもテレグラフの名の付いた丘や峠が残っている。かつて塔が建っていた場所で、自転車のツール・ド・フランスで知られるテレグラフ峠もその一つである。電信の網は、のちに海の底を通って大陸どうしを結び(大西洋横断電信ケーブル)、国際的な取り決めも生まれた(国際電信連合の設立)。言葉を速く遠くへ送るという夢の最初の形は、革命の時代のフランスの塔の上で、木の腕を動かすことから始まった。