概要
安史の乱で戸籍が崩れ、均田制と租庸調が回らなくなった。宰相楊炎の案。人でなく、持っている土地と資産に課税する。夏と秋の2回。銭で納める(後に一部は現物)。土地の私有と売買を、事実上、認めた。国家が土地を配る建前が終わり、地主と佃戸(小作)の関係が中国の農村の基本になった。この形が、明の一条鞭法まで700年続いた。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
本文
北魏の均田制(485年)から、隋唐の均田・租庸調・府兵制。
建前。国が全ての土地を持ち、成年男子に一定の面積を配る(口分田は死んだら返す、永業田は相続できる)。その代わり、租(粟2石)、庸(労役20日、または絹で代納)、調(絹または麻)を、人ごとに納める。兵役も、その中から。
前提は、正確な戸籍。誰が何歳で、どこに住んでいるか。唐の初め、それは機能した。
崩れた。人口が増えて、配る土地が足りなくなった。貴族と寺院と官僚が、免税の土地(荘園)を広げた。農民は逃げた(逃戸)。戸籍に載っている人と、実際にそこにいる人が、合わなくなった。755〜763年、安史の乱。中原が荒れ、戸籍が焼け、節度使が地方の税を握った。
戦後、政府は、増える支出を、残った戸籍の農民に上乗せした。その農民が、また逃げた。
780年、徳宗の時代。宰相楊炎の案。
両税法。(1)課税の基準を、人から、資産と土地に変える。(2)現に住んでいる場所で課税する(本籍地でなく。だから逃戸も課税できる)。(3)夏(6月)と秋(11月)の2回に分けて納める(作物の収穫に合わせて)。(4)銭で納める(後に一部は現物に戻った)。(5)「量出制入」——先に必要な支出を決めて、それを割り振る(それまでの「量入制出」の逆)。
意味。国が土地を配る建前が、公式に終わった。土地は、持っている人のもので、売買できる。持っている量に応じて税を払う。
結果。(1)大土地所有が合法になり、地主と佃戸(小作)の関係が、中国の農村の基本の形になった(20世紀まで)。(2)銭で納めるので、農民は作物を市場で売る必要が生じた(商業の発達と、同時に、収穫期に売り急いで安く買い叩かれる問題)。(3)銅銭が不足して、実質の税負担が上がった(デフレ)。陸贄がそれを批判した。
その後。宋は両税を引き継ぎ、さらに雑多な付加税を積み上げた。明の一条鞭法(1581年)が、それを銀で一本化する。清の地丁銀(18世紀)が、人頭税を土地税に完全に繰り入れる。
「人に課す」から「物に課す」へ。780年から始まった動きが、900年かけて完成した。