両税法
概要
安史の乱で戸籍が崩れ、均田制と租庸調が回らなくなった。宰相楊炎の案。人でなく、持っている土地と資産に課税する。夏と秋の2回。銭で納める(後に一部は現物)。土地の私有と売買を、事実上、認めた。国家が土地を配る建前が終わり、地主と佃戸(小作)の関係が中国の農村の基本になった。この形が、明の一条鞭法まで800年続いた。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
本文
780年、唐の皇帝徳宗は、宰相楊炎の建議を受けて、税の取り方を根本から改めた。それまでの唐は、国が農民に土地を分け与え、その代わりに一人ひとりから決まった量の穀物や布や労役を取り立てる仕組みをとっていた。新しい税は、人ではなく、各戸が持っている資産と耕地の広さに応じてかけ、夏と秋の年2回に分けて納めさせる。この「両税法」によって、国が土地を配るという建前は事実上終わり、土地を自由に持ち、売り買いする社会が公に認められた。中国の税の仕組みは、ここから明の時代まで、この形を土台に動いていく。
その前の仕組みは、北魏にさかのぼる。5世紀の末、北魏は戦乱で荒れた土地に農民を定着させるため、国が成年の男女に一定の面積の土地を分け与える均田制を始めた。漢化を進めた孝文帝の時代の改革である(孝文帝の洛陽遷都と漢化)。この制度は隋と唐に受け継がれた。唐の制度では、成年の男子に、本人が死ねば国に返す口分田と、子孫に伝えてよい永業田が与えられた。その代わり、男子は一人ごとに、穀物を納める租、絹や麻布などを納める調、年に20日の労役を務める庸を負った。庸は布を納めて代えることもできた。兵士もまたこうした農民の中から選ばれた。国が民を一人残らず把握し、土地と税と兵役を一つの帳簿で結びつける。それが唐の国家の骨組みだった。
この仕組みの前提は、正確な戸籍である。誰がどこに住み、何歳で、どれだけの土地を受け取っているか。唐の初め、貞観の治と呼ばれる時代には、それはおおむね機能していた。だが8世紀に入ると、ほころびが目立ち始めた。人口が増えるにつれ、分け与える土地が足りなくなった。皇族や貴族、官僚、寺院は、税のかからない広い土地を手に入れ、そこに農民を抱え込んだ。重い税と兵役に耐えかねた農民は、戸籍に載った土地を捨てて逃げ、よその土地で有力者の小作人になった。帳簿の上の民と、実際にそこに住む民が、どんどん食い違っていった。

決定的な打撃は、755年に始まった安史の乱だった。玄宗の治世の末に起きたこの大乱で、華北の中心部は8年にわたって戦場となり、戸籍は焼け、人びとは散り散りになった。乱の前には900万近くあった戸籍の上の戸数は、乱の後には200万を下回るまで落ち込んだとされる。実際に人がそれほど減ったのではなく、国が民をつかめなくなったのである。乱を鎮めるために置かれた軍の司令官、節度使は、各地で税と兵を握り、中央の言うことを聞かなくなった。
乱の後、唐の朝廷は増え続ける軍事費を賄わなければならなかった。だが帳簿に残っているのは、逃げずに残った一部の農民だけだった。朝廷はその人びとに、名目もさまざまな税を次々に上乗せした。重い負担に耐えかねて、残った農民もまた逃げ出す。悪循環だった。塩の専売などで財政をしのぎながら、朝廷は根本的な立て直しを迫られていた。
780年に実施された楊炎の両税法は、いくつもの点で発想を転換していた。第一に、税をかける基準を、人の数から、戸ごとの資産と耕している土地の広さに変えた。土地をたくさん持つ者は多く、少ない者は少なく払う。第二に、本籍地ではなく、いま実際に住んでいる場所で税をかけることにした。戸籍を離れて流れてきた者も、土地の者と区別なく課税される。逃げた農民を元に戻すのではなく、いる場所でつかまえる、という割り切りである。第三に、作物の収穫の時期に合わせて、夏と秋の2回に分けて納めさせた。「両税」の名はここから来ている。第四に、税の額を銭で定めた。
さらに楊炎は、国の財政の考え方そのものを逆にした。それまでは、入ってくる収入を見て支出を決めるのが建前だった。楊炎は、まず国に必要な支出を見積もり、それに合わせて税の総額を決め、各地に割り振るべきだと唱えた。「出を量りて入を制す」と呼ばれる考え方である。
両税法は、それまでのごちゃごちゃした税を一つにまとめ、財政の立て直しに一定の効果を上げた。しかし問題もすぐに表れた。税の額は銭で決められたが、当時の唐では銅銭が足りなかった。農民は銭を手に入れるために、収穫したばかりの穀物や絹を市場で売らねばならず、皆がいっせいに売るので値は下がり、実際の負担は重くなった。銭の値打ちが上がって物の値が下がる中で、同じ額の銭を納めるために、ますます多くの作物を手放すことになったのである。宰相陸贄は、こうした弊害を厳しく指摘し、改善を求める上奏を出した。実際には、まもなく多くの税が絹や穀物でも納められるようになった。楊炎自身は政争に敗れ、両税法を始めた翌年に失脚し、死を命じられている。
それでも、両税法が中国の社会に与えた影響は大きかった。国が土地を配り直す建前がなくなったことで、土地は私有の財産として売り買いされるものになった。土地を集めた地主と、その土地を借りて耕す小作人(佃戸)の関係が、農村の基本の形になっていく。この関係は、20世紀の土地改革まで、中国の農村を形づくり続けた。また、銭で税を払うために農民が作物を市場で売るようになったことは、商業と貨幣経済の広がりを後押しした。
両税法は唐が907年に滅んだ後(唐の滅亡)も受け継がれた。宋の時代には、両税に加えて雑多な付加の税が積み上げられ、11世紀には王安石がその改革に取り組んだ(王安石の新法)。明の時代、1581年に全国に広げられた一条鞭法は、土地税と労役などを銀でまとめて納めさせるもので、両税法の流れをさらに推し進めた。清の18世紀には、人にかかる税を土地の税に完全に繰り入れる地丁銀の制度が広がった。人に税をかける仕組みから、物、すなわち土地と資産に税をかける仕組みへ。780年に始まったその転換は、千年近くかけて行き着くところまで進んだのである。