できごと

プガチョフの乱

Pugachev's Rebellion
AD1773年
重要度 3
プガチョフの乱に関わる図版:Pugachev-1773—1775
Pugachev-1773—1775 Wikimedia Commons Koryakov Yuri · CC BY 2.5

概要

コサックが死んだ皇帝を名乗り、農奴とウラルの労働者を集めてヴォルガ流域を席巻した。鎮圧後、エカチェリーナは農奴制をむしろ強めた。

場所

カザン
55.80°N 49.11°E · ロシア・タタールスタン共和国

関わった人(1)

エカチェリーナ2世AD1729年5月2日–AD1796年11月17日 · 鎮圧した

本文

18世紀のロシアは、ピョートル1世以来の改革で西欧の大国に並ぼうとしていた。その重みは農民の肩にかかっていた。農奴は領主の土地に縛られ、売り買いされ、領主の裁きで鞭打たれた。兵役は事実上の終身で、税は増えた。ウラル地方では、鉱山や製鉄所に農民が割り当てられ、工場で働かされた。辺境には、もとは逃げた農民の子孫で、自治と特権を持つ代わりに国境を守るコサックが暮らしていたが、帝国はその自治も削りつつあった。1772年には、ウラル川(当時はヤイク川)流域のヤイク・コサックが反乱を起こし、厳しく鎮められたばかりだった。

1762年、皇帝ピョートル3世が妻エカチェリーナのクーデターで廃され、数日後に死んだ。エカチェリーナ2世は夫の死を病死と発表したが、人々のあいだでは、皇帝は生きていて身を隠している、いつか民を救いに戻ってくる、という噂が絶えなかった。ロシアでは、死んだはずの皇帝を名乗る者がそれまでも何度も現れている。

ペロフ画『プガチョフの裁き』(国立歴史博物館)
ペロフ画『プガチョフの裁き』(国立歴史博物館)Wikimedia Commons Перов · Public domain

エメリヤン・プガチョフは、ドン川流域のコサックの村に生まれた。七年戦争やオスマン帝国との戦争に従軍したが、脱走して各地を放浪し、何度か捕らえられては逃げていた。1773年9月、彼はヤイク・コサックのもとに現れ、自分こそピョートル3世だと名乗った。コサックたちがそれを本気で信じたかどうかは分からない。ただ、旗印としては役に立った。

プガチョフは「皇帝」の名で布告を出し、コサックには昔からの自由と土地を、異民族には信仰の自由を約束した。反乱はたちまち広がった。ヤイク・コサックに加え、土地を奪われつつあったバシキール人やタタール人、カルムイク人が加わり、ウラルの製鉄所の労働者が大砲を鋳造して送った。バシキール人の若い指導者サラヴァト・ユラーエフは、のちにバシコルトスタンの英雄とされる。反乱軍は辺境の要塞を次々に落とし、拠点の町オレンブルクを半年にわたって包囲した。捕らえた将校や役人、領主は、多くが絞首刑にされた。

イリヤ・レーピン『ザポロージャのコサックの返書』
イリヤ・レーピン『ザポロージャのコサックの返書』Wikimedia Commons Ilya Repin · Public domain

1774年3月、政府軍がオレンブルクの近くで反乱軍を破り、包囲は解けた。だがプガチョフはウラルへ逃れて兵を集め直し、7月、ヴォルガ川中流の大都市カザンに攻め込んだ。町は焼かれたが、城塞は持ちこたえ、追ってきた政府軍に敗れた。プガチョフはヴォルガを西へ渡る。7月末、彼は布告を出し、農奴を解放し、土地と自由を与え、税も兵役も無くすと宣言した。ヴォルガ右岸の農村で農民が一斉に立ち上がり、領主の屋敷を襲った。殺された領主は数百人から千人以上と言われる。モスクワの貴族たちは震え上がった。

しかし、ちょうどこの月にオスマン帝国との戦争が講和で終わり、前線の部隊が鎮圧に回された。プガチョフはヴォルガを下ってツァリーツィン(のちのヴォルゴグラード)を落とせず、8月末に大敗した。9月、懸賞金と赦免を求めた仲間のコサックたちに縛られ、政府軍に引き渡された。檻に入れられてモスクワへ送られ、1775年1月、ボロトナヤ広場で処刑された。判決は四つ裂きだったが、先に首を落とされたとされる。

ワシーリー・ペロフ『プガチョフの裁き』(1879年の異版、ロシア美術館)
ワシーリー・ペロフ『プガチョフの裁き』(1879年の異版、ロシア美術館)Wikimedia Commons Vasily Perov · Public domain

エカチェリーナはヴォルテールやディドロと手紙を交わし、即位後には法典を編むための委員会を開いて、農奴制についても論じさせた啓蒙君主だった。だが乱のあと、彼女は地方の統治を固める方向へ進む。1775年に地方行政の改革を行って県を細かく分け、地方の貴族に役職と権限を与えた。1785年には貴族の特権をあらためて保証する特許状を出した。農奴制は緩むどころか、のちにウクライナにまで広げられた。帝国を支えるのは貴族であり、貴族の財産は農奴だった。

乱の記憶は消されようとした。ヤイク川はウラル川と名を改められ、ヤイク・コサックもウラル・コサックとされた。プガチョフの生まれた村も改名された。それでも記憶は残り、60年後に詩人プーシキンが乱の歴史を調べて書き、それをもとに小説『大尉の娘』を書いた。ロシアの農奴が解放されるのは、この乱から90年近くあとのことである(農奴解放令)。

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