できごと

清教徒革命と国王処刑

English Civil War
1642年 – 1649年
期間を持つできごと重要度 5
清教徒革命と国王処刑に関わる図版:Battle of Naseby, hand-coloured copper engraving
Battle of Naseby, hand-coloured copper engraving Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

議会が王を裁き、公開で処刑した。王が法の上にいるという考えが、ヨーロッパの目の前で否定される。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

オリヴァー・クロムウェルAD1599年4月25日–AD1658年9月3日 · 議会側

本文

1649年1月30日の午後、ロンドンのホワイトホール宮殿の宴会館の前に組まれた台の上で、イングランド王チャールズ1世の首が斧で落とされた。議会が設けた法廷が王を裁き、判決を下し、公衆の前で処刑したのである。それまでも王が殺されることはあった。戦場で、暗殺で、あるいは幽閉されて密かに。だが王を法廷に立たせ、国民に対する罪で裁いて首を落とした例は、ヨーロッパに無かった。

チャールズ1世は1625年に即位した。王の権力は神から授けられたものだと信じ、議会と衝突を重ねた。議会の承認を得ない課税や強制的な借り上げに対し、議会は1628年に権利の請願を突きつけ、王はいったん受け入れたが、翌年には議会を解散し、以後11年にわたって議会を開かずに統治した。海に面していない内陸の州にまで艦船の費用を課した船舶税は、とくに反発を招いた。

チャールズ1世の処刑
チャールズ1世の処刑Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

宗教も対立を深めた。チャールズとカンタベリー大主教ロードは、儀式を重んじる教会のあり方を押し進め、カトリックに近づいていると清教徒たちから疑われた。1637年、王は長老派の強いスコットランドに、イングランド式の祈祷書を押しつけようとして反乱を招く。戦費に困った王は1640年、ついに議会を召集せざるを得なくなった。のちに長期議会と呼ばれるこの議会は、王の側近ストラフォード伯を処刑し、議会の同意なしの課税を違法とする法を次々に通した。

1642年1月、チャールズは自ら兵を連れて議場に乗り込み、反対派の議員5人を逮捕しようとした。議員たちはすでに逃げていた。王はロンドンを去り、8月、ノッティンガムで王旗を掲げた。内戦の始まりである。王の側は騎士派、議会の側は髪を短く刈った清教徒が多かったことから円頂派と呼ばれた。日本では清教徒革命と呼ぶことが多いが、イギリスではイングランド内戦、あるいはスコットランドとアイルランドを含めた「三王国戦争」と呼ばれる。

王権神授説を信じたチャールズ1世(ヴァン・ダイク原作による肖像)
王権神授説を信じたチャールズ1世(ヴァン・ダイク原作による肖像)Wikimedia Commons Workshop of Anthony van Dyck · Public domain

戦局を変えたのは、議員で騎兵隊の指揮官だったオリヴァー・クロムウェルである。信仰で結束した規律の高い騎兵を率いて頭角を現し、議会は1645年、全国から兵を集めた常備の新型軍を編成した。同年6月のネーズビーの戦いで王の主力は壊滅し、翌年、王はスコットランド軍に投降した。だが王は捕らわれの身のまま各勢力と交渉を続け、スコットランドと密約を結んで1648年に再び戦争を起こした。

二度目の内戦に勝った軍は、王を信用しなくなっていた。議会の中にはなお王との妥協を望む議員が多かったため、1648年12月、軍は議場の入り口に兵を立て、100人を超える議員を締め出した。残った少数の議員だけの議会が、王を裁く特別の高等法院を設けた。王を裁く法は、それまでのイングランドに無かったからである。

ヘンリエッタ・マリア(ピーター・レリー画、1660年)
ヘンリエッタ・マリア(ピーター・レリー画、1660年)Wikimedia Commons Peter Lely / After Anthony van Dyck · Public domain

裁判は1649年1月20日に始まった。チャールズは法廷の権限を一切認めず、自分を裁くことのできる権威は地上に無いと言って、答弁を拒んだ。法廷は王を暴君、裏切り者、殺人者、国の公敵として死刑を言い渡した。死刑執行の令状には59人が署名した。

処刑の日は寒かった。王は、震えているのを恐怖のせいだと見られたくないと言って、シャツを2枚重ねて着たと伝えられる。台の上で王は、臣民の自由とは自分たちの統治を持つことであって、統治に加わることではない、という趣旨の言葉を残した。首が落ちたとき、群衆の間から、それまで聞いたことのないうめき声が上がったと、その場にいた若者が後に日記に書き留めている。

長期議会の開会(1640年)
長期議会の開会(1640年)Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

3月、議会は君主制と貴族院を廃止し、イングランドは共和国になった。クロムウェルはアイルランドに遠征し、ドロヘダなどで守備兵や住民を殺戮して、その地に深い傷を残した。1653年には護国卿に就いて実質的に国を治めたが、1658年に死ぬと体制は揺らぎ、1660年、亡命していたチャールズ1世の子が迎えられて王政が戻った。チャールズ2世である。王の処刑に関わった者たちは処罰され、すでに死んでいたクロムウェルの遺体は掘り出されて絞首台に吊るされた。

死刑執行の令状に署名した者のうち、王政復古のときに生きていた者の多くは、処刑されるか、終身の獄に入れられた。国外へ逃れた者もいて、ニューイングランドの植民地にかくまわれた者もいる。一方、国教会は処刑の日の1月30日を「殉教者チャールズ王」の記念日と定め、この祈りの日は19世紀の半ばまで祈祷書に残った。同じ一人の死が、ある人々には暴君への裁きとして、別の人々には聖なる王の殉教として記憶された。

それでも、時計の針は戻らなかった。王が議会の同意なしに国を治めることはもはや難しくなり、28年後の名誉革命と権利章典で、王も法の下にあるという原則が文書として確定する。内戦のさなかには、身分によらない選挙権を論じた水平派のような急進的な主張も現れた。秩序の崩壊を目の当たりにしたホッブズは、亡命先で『リヴァイアサン』を書き、強い主権がなければ人間は万人の万人に対する戦いに陥ると論じた。

名誉革命と権利章典に関わる図版:William of Orange III and his Dutch army land in Brixham, 1688
名誉革命と権利章典Wikimedia Commons Johan Herman Isings · Public domain

犠牲は大きかった。戦闘と疫病による死者の推計には幅があるが、イングランド、スコットランド、アイルランドを合わせると数十万にのぼり、人口に対する割合では、第一次世界大戦を上回ったとする推計もある。とくにアイルランドの被害は甚大だった。約140年後、フランス革命で国王ルイ16世が裁かれたとき、人々はこの先例を思い出すことになる。

動画(1)

110 ピューリタン革命 世界史20話プロジェクト第12話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第110講「ピューリタン革命」

出典(1)

ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソン(鬼澤忍 訳) 『国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源』第7章 転換点

同じ時代のできごと

計算尺AD1622年ンジンガのポルトガル抵抗1624年グロティウス『戦争と平和の法』AD1625年塵劫記AD1627年ハーヴェイの血液循環AD1628年ラ・ロシェルの包囲AD1628年10月28日バタヴィア号の遭難AD1629年6月4日リュッツェンの戦いAD1632年11月16日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1642年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →