できごと

ルイ16世の処刑

Execution of Louis XVI
AD1793年1月21日
重要度 4
ルイ16世の処刑に関わる図版:Execution of Louis XVI
Execution of Louis XVI Wikimedia Commons Isidore Stanislas Helman / After Charles Monnet · Public domain

概要

国民公会が一票差に近い票決で死刑を決め、革命広場でギロチンにかけた。王を裁いて殺すという行為が、ヨーロッパの王たちを敵に回す。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

ルイ16世AD1754年8月23日–AD1793年1月21日 · 処刑された

本文

1793年1月21日の朝、パリの革命広場(いまのコンコルド広場)で、元フランス国王ルイ16世がギロチンにかけられた。38歳だった。王を裁判にかけ、死刑にするという出来事は、フランスの中にも外にも、決して戻れない線を引いた。

1789年にフランス革命が始まったとき、多くの人は、王を廃するのではなく、王の力を憲法で縛ればよいと考えていた。ルイ16世も、表向きは新しい体制を受け入れた。だが1791年6月、王の一家は変装してパリを抜け出し、東の国境へ向かった。妻マリー・アントワネットの実家であるオーストリアの助けを得ようとしたとみられる。一家は国境に近いヴァレンヌで見つかり、パリへ連れ戻された。王が国を捨てて逃げようとした、という事実は、王への信頼を大きく損なった。

フランス革命に関わる図版:Anonymous - Prise de la Bastille
フランス革命Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

1792年、フランスはオーストリアとプロイセンを相手に戦争を始めた。戦況が悪くなると、王が敵と通じているという疑いが高まった。8月10日、パリの民衆と各地から来た義勇兵がテュイルリー宮殿を襲い、王の権限は停止された。9月、新しく選ばれた国民公会が王政を廃止し、共和国を宣言した。王は「ルイ・カペー」と呼ばれ、家族とともに塔に閉じ込められた。

11月、宮殿の壁に隠された鉄の戸棚が見つかり、王が国外の勢力や革命の反対派と交わした手紙が出てきた。王を裁くべきだという声が強まった。だが、誰が、どの法で裁くのか。憲法は王を罪に問えないと定めていた。若い議員サン=ジュストは、王であること自体が罪であり、人は罪なくして王であることはできない、と論じた。マクシミリアン・ロベスピエールは、裁判は要らない、祖国が生きるためにルイは死なねばならない、と主張した。

1792年8月13日、タンプル塔へ移送されるルイ16世とその家族(スヴェバック=デフォンテーヌ画、1792年)
1792年8月13日、タンプル塔へ移送されるルイ16世とその家族(スヴェバック=デフォンテーヌ画、1792年)Wikimedia Commons Swebach-Desfontaines, Jacques François Joseph (Metz, 19–03–1769 - Paris, 10–02–1823), dessinateur · CC0

結局、国民公会そのものが裁判の場となった。12月、王は議場に呼ばれて尋問を受け、弁護人がついた。その一人は、かつて王の大臣を務めた70歳を超えるマルゼルブだった。

1793年1月、議員たちは一人ずつ演壇に上がり、自分の意見を述べて投票した。王が有罪かどうかについては、反対した者はいなかった。国民の投票に判断をゆだねるべきだという案は退けられた。刑罰をめぐる投票では、721人が票を投じ、何の条件も付けない死刑に賛成したのは361票で、ちょうど過半数だった。条件付きの死刑や、禁固、追放などを求めた票がそれ以外になる。数え方によって、死刑に賛成した票を387票とする集計もある。続いて刑の執行を延ばすかどうかが問われ、延期は否決された。死刑に賛成した議員の中には、王の従兄弟のオルレアン公もいた。

国民公会で裁判にかけられるルイ16世、最前列にはロベスピエールも見える(ヴィンケレス画、1793-96年頃)
国民公会で裁判にかけられるルイ16世、最前列にはロベスピエールも見える(ヴィンケレス画、1793-96年頃)Wikimedia Commons Reinier Vinkeles · Public domain

21日の朝、王は馬車で処刑の場へ運ばれた。広場には大勢の兵と群衆が集まっていた。処刑台に上がった王は、自分は罪なくして死ぬ、と群衆に語りかけようとしたが、指揮官の命令で太鼓が打ち鳴らされ、その声はかき消されたと伝えられる。刃が落ちたあと、処刑人が王の首を高く掲げて群衆に示した。

この処刑は、ヨーロッパの王たちを震え上がらせた。王を、民衆の代表が裁いて殺した。2月、フランスはイギリスとオランダに宣戦し、続いてスペインとも戦争になった。ヨーロッパの多くの国が手を組んで、フランスの革命に立ち向かう同盟を作った。

国内でも、反発が起きた。西部のヴァンデ地方では、軍への徴兵をきっかけに、王と教会を支持する農民の大規模な反乱が起きた。外の戦争と内の反乱に追い詰められた革命政府は、反対する者を容赦なく処刑して国をまとめようとした。その年の秋、恐怖政治が始まる。王妃マリー・アントワネットは、夫の死から9か月後の10月、同じ広場でギロチンにかけられた。

恐怖政治に関わる図版:Octobre 1793, supplice de 9 émigrés
恐怖政治Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

王を殺したことで、革命は引き返せなくなった。王の処刑に賛成した議員たちは、王政が戻れば自分たちが裁かれることを知っていた。実際、王政が戻ったあとの1816年、生き残っていた「国王殺し」の議員の多くは国外へ追放された。ルイ16世の遺骨は、この年、歴代の王が眠るサン=ドニの聖堂に移された。

王の処刑には先例があった。1649年、イングランドで国王チャールズ1世が議会派に裁かれ、処刑されている(チャールズ1世の処刑)。フランスの議員たちも、その先例をよく知っていた。イングランドでは、その後11年で王政が戻った。フランスでも王政は一度戻るが、19世紀のうちに再び倒れ、いまのフランスは共和国である。

動画(1)

ルイ16世とマリー・アントワネット、ギロチンに散る【COTEN RADIO #53】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO国民公会がなぜ王を殺す決定に至ったかを扱う

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