ケマル・アタテュルク
概要
解体寸前の帝国からトルコ共和国を作った。文字をラテン字に替え、暦も服装も法も入れ替える。
関わったできごと(3)
ローザンヌ条約AD1923年7月24日 · 勝ち取ったトルコ共和国の成立AD1923年10月29日 · 当人トルコの文字改革AD1928年11月1日 · 進めた本文
1881年頃、オスマン帝国のバルカン半島の港町サロニカ(いまのギリシアのテッサロニキ)に生まれた。生年は1880年とする説もある。父アリ・ルザは下級の役人から材木商になった人で、ムスタファが幼いうちに亡くなった。母ズュベイデは息子を宗教学校に入れたがったが、ムスタファは自分で陸軍の幼年学校を選んだ。数学の教師が、同じ名の生徒と区別するため「ケマル(完全な者)」という名を与えたと伝えられる。
陸軍士官学校から陸軍大学校へ進み、1905年に参謀大尉として卒業した。当時の青年将校の間には、専制的なスルタンの政治を改め、帝国を立て直そうという運動が広がっていた。ケマルもその流れに加わり、1908年の青年トルコ革命の時代を若い将校として過ごした。ただ、運動の中心にいた指導者たちとはそりが合わず、主流からは外れていた。1911年には北アフリカのリビアでイタリア軍と戦い、続くバルカン戦争では帝国がヨーロッパの領土の大半を失うのを目の当たりにした。

名を上げたのは第一次世界大戦である。1915年4月、イギリスやフランス、オーストラリア・ニュージーランドの連合軍が、首都イスタンブールへの海の入口を押さえようとダーダネルス海峡のガリポリ半島に上陸した(ガリポリの戦い)。師団長だったケマルは、上陸した部隊が高地を取る寸前に自ら兵を率いて駆けつけ、食い止めた。そのとき部下に、私は諸君に攻撃を命じるのではない、死ぬことを命じる、我々が死ぬまでの間に、ほかの部隊と指揮官が来て代わりを務めるだろう、と言ったと伝えられる。この連隊はほとんど全滅した。8か月の戦いの末、連合軍は撤退し、ケマルは国民的な英雄になった。
しかし帝国は大戦に敗れた。1918年の休戦の後、連合国はイスタンブールを占領し、帝国を分割しようとした。1919年5月にはギリシア軍がエーゲ海沿岸のイズミルに上陸した。その数日後、ケマルは軍の監察官として黒海沿岸のサムスンに渡り、そこから各地の抵抗を一つにまとめ始めた。スルタンの政府に命令を撤回されると、軍を辞して運動に身を投じた。1920年4月、内陸のアンカラに大国民議会を開き、イスタンブールのスルタン政府とは別の政府を作った。

同じ1920年8月、スルタン政府は連合国とセーヴル条約を結んだ。アナトリアの東にはアルメニア人の国家とクルド人の自治区が置かれ、西はギリシアに、南はイタリアやフランスの勢力圏にされ、トルコ人に残るのはアナトリア中部の一部だけになるはずだった。ケマルたちはこれを認めなかった。1921年夏、アンカラに迫ったギリシア軍を、首都の西のサカリヤ川で3週間近い激戦の末に食い止めた。翌1922年8月に反撃に出て、9月にはイズミルを取り戻し、ギリシア軍をアナトリアから追い出した。
1922年11月、議会はスルタン制の廃止を決め、最後のスルタンはイギリスの軍艦で国を去った。1923年7月、連合国とローザンヌ条約を結び、ほぼ今のトルコの国境が認められた。ギリシアとの間では、正教徒とムスリムを互いの国へ移す大規模な住民交換も取り決められた。同じ年の10月29日、トルコ共和国の成立が宣言され、ケマルは初代大統領になった。首都はイスタンブールではなく、抵抗運動の拠点だったアンカラに置かれた。

そこからの改革は、徹底していた。1924年3月、カリフ制を廃止した。ムハンマドの後継者としてイスラーム世界を代表するカリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)の位は、形を変えながらも1300年近く続いてきたもので、これが消えたことはイスラーム世界全体を揺さぶった。宗教学校と宗教法廷も廃止された。1925年には帽子法を定めて、オスマンの男たちがかぶっていたトルコ帽を禁じ、つばのある帽子をかぶらせた。ケマル自身がパナマ帽をかぶって地方を回り、手本を示した。1926年には、民法をスイスの民法をもとに、刑法をイタリアの刑法をもとに作り替え、一夫多妻を禁じた。1928年には、憲法からイスラームを国の宗教とする条文を削った。
同じ1928年、文字をアラビア文字からラテン文字に替えた(トルコの文字改革)。ケマルは自ら黒板とチョークを持って公園や広場に立ち、新しい文字を人々に教えた。わずか数か月で、新聞も役所の文書も新しい文字に切り替えられた。言葉からアラビア語やペルシア語の借用語を減らし、トルコ語らしい言葉に置き換える運動も進めた。暦は西暦に、休日は金曜日から日曜日に替えられ、度量衡はメートル法になった。女性は顔を覆うことを強いられなくなり、1934年には国政の選挙権と被選挙権を得た。フランスやイタリアより10年ほど早い。

1934年には姓氏法が作られ、すべての国民に姓を名乗ることが義務づけられた。議会はケマルに「アタテュルク」、トルコ人の父という姓を贈った。
ただし、この改革は上からの、しかも力ずくのものでもあった。議会はケマルの作った共和人民党がほぼ独占し、反対党は短期間で解散させられた。1925年に東部でクルド人の宗教指導者が反乱を起こすと、厳しく鎮圧し、それをきっかけに反対派の新聞を閉じさせた。1926年に暗殺計画が発覚したときには、関わったとされたかつての同志たちを裁判にかけ、処刑した。トルコ人という一つの国民を作る政策は、クルド人など少数の民族の言葉や文化を抑えることにもつながった。

私生活では、1923年に結婚したラティフェと2年ほどで別れ、実子はいなかった。多くの子を養子に迎え、そのうちの一人サビハ・ギョクチェンはトルコで最初の女性の軍用機の操縦士になった。夜更けまで酒を飲み、側近と議論することを好んだ。外交では「国内に平和、世界に平和」を掲げ、かつて戦ったギリシアとも和解を進めた。
酒の飲みすぎもあって肝臓を病み、1938年11月10日の午前9時5分、イスタンブールのドルマバフチェ宮殿で亡くなった。57歳前後だった。宮殿の時計は、その時刻で止められたと伝えられる。いまもトルコでは毎年11月10日の9時5分にサイレンが鳴り、人々は立ち止まって黙祷する。遺体は後にアンカラの丘の上に建てられた霊廟に移された。

アタテュルクの肖像は、今もトルコの紙幣や役所や教室に掲げられ、その名誉を傷つけることは法律で禁じられている。一方で、宗教を公の場から締め出した世俗主義に対しては、信仰を大切にする人々の反発が根強く、その対立はいまもトルコの政治の大きな軸になっている。帝国の廃墟から一つの国民国家を作り上げたこと、そのやり方の性急さと強引さ。その両方が、彼の残したものである。