できごと

王安石の新法

Wang Anshi's New Policies
AD1069年
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民キメク=キプチャク可汗国遼(契丹)宋チベットラージプートの諸王国ガズナ朝西夏西夏チョーラ朝チャールキヤ朝南詔パーラ朝南詔と大理パガン朝日本プラティーハーラ朝高麗パガン朝クメール帝国アイヌカリンガHaripunjayaSenas大越チャーハマーナ朝チャンパドヴァーラヴァティーAD1069年開封
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概要

神宗が宰相にした。青苗法、募役法、均輸法、市易法、保甲法、方田均税法。国が農民に金を貸し、労役を金で代え、大商人の利を国が取る。司馬光、蘇軾、欧陽修が反対した。「祖宗の法を変えるな」。新法党と旧法党が50年争い、宋は弱った。

場所

開封
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省

本文

1069年、北宋の皇帝神宗は、地方官として名の知られた王安石を参知政事(副宰相)に取り立てた。翌年には宰相に据えた。王安石は「新法」と呼ばれる一連の改革を次々に打ち出し、国家の財政と軍事を根本から作り直そうとした。この改革をめぐって、宋の官僚は新法党と旧法党に分かれ、その争いは半世紀にわたって続いた。

改革が求められた理由は、宋という国の仕組みそのものにあった。趙匡胤(宋の太祖)は、唐の末から五代にかけて節度使と呼ばれる軍人が国を割った反省から、武人を抑え、文官が国を動かす体制を作った。官僚は隋に始まる試験の制度(科挙の始まり)で選ばれ、士大夫と呼ばれる読書人の層が政治を担った(宋の科挙と士大夫)。ところが官僚の数は増え続け、兵は100万を超えて、その多くは訓練の行き届かない傭兵だった。北の遼(契丹)とは澶淵の盟を結んで毎年絹と銀を贈り、西の西夏とも戦いのあと歳幣を払う和約を結んでいた。11世紀の半ばには、国の支出は収入を上回り、赤字が当たり前になっていた。

王安石の肖像画
王安石の肖像画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1067年、神宗は20歳で即位した。若い皇帝は、宋が遼と西夏に頭を下げ続けていることに我慢がならなかった。富国強兵を掲げる王安石は、その考えに応える人物だった。王安石は江西の出身で、科挙に合格したあとは長く地方官を務め、地方の財政と農村の実情を知っていた。1058年には、仁宗に長大な意見書を出して、制度の改革を説いていた。

新法は、主に三つの柱からなっていた。国の財政を立て直すこと、農民を守ること、そして兵を強くすることである。青苗法は、春の端境期に国が農民に銭や穀物を貸し付け、秋の収穫のあとに2割ほどの利息をつけて返させる制度だった。それまで農民は地主や商人から高い利息で借りていたので、国が安く貸せば農民は助かり、国にも利息が入る。募役法(免役法)は、官庁の雑用や物資の運搬など、民に順番で課していた重い労役を、銭を納めることで免除し、国がその銭で人を雇う仕組みである。

王安石の肖像(『晩笑堂画伝』1743年)
王安石の肖像(『晩笑堂画伝』1743年)Wikimedia Commons 上官周 (1665-?) · Public domain

均輸法は、都の開封へ送る物資を、産地の値段を見ながら安い所で買い集めるようにして、運送の無駄と大商人の中抜きを省いた。市易法は、国が都の市場で売れ残った品物を買い上げ、値が上がったときに売り出すことで、大商人の買い占めを抑え、物の値段を安定させようとした。方田均税法は、田畑を測り直して、隠された土地に税をかけ、税の重さを公平にしようとした。保甲法は、農民の家を10戸、50戸、500戸と組にして互いに見張らせ、農閑期には武芸を訓練させて、傭兵に頼らない兵を作ろうとした。このほか、民に馬を飼わせて軍馬にする保馬法や、灌漑を進める農田水利法もあった。

王安石は科挙も変えた。詩や賦の出来を競う試験をやめ、経書の意味を論じる経義と、時事を論じる策論を中心にした。自ら経書の注釈『三経新義』を作り、これを学校の教科書とした。官僚になる者の頭の中から作り変えようとしたのである。

反対は、宮廷の最も名のある人々から上がった。司馬光、韓琦、富弼、欧陽修、文彦博、そして蘇軾。のちに旧法党と呼ばれる人々である。司馬光は、天下の財には限りがあり、国が多く取れば民の取り分が減るだけだ、と論じた。旧法党は、国が商売に手を出して民と利を争うのは、儒教の政治の道に反すると考えた。祖宗の法、つまり建国の皇帝たちが定めた制度を軽々しく変えてはならない、という声も強かった。王安石には「天変は畏るるに足らず、祖宗は法るに足らず、人言は恤うるに足らず」という言葉が結びつけられているが、これは反対派が王安石の態度をまとめた言い方で、本人がそのまま言ったかどうかは分からない。

新法には、実際の運用でも問題が出た。青苗法では、貸し付けの額が役人の成績になったため、借りる必要のない農民にまで無理に貸し付け、返せなくなった農民が土地を失うことがあった。保甲法の訓練は農民の負担になった。王安石は反対する者を地方へ出し、自分に従う者を要職につけた。新法党の中にも、出世のために改革を利用する者が入り込んだ。

1074年、華北が大旱魃に見舞われた。下級の役人だった鄭侠は、飢えて流浪する民の姿を描いた絵を神宗に献じ、新法をやめれば雨が降ると訴えた。宮中の皇太后たちも新法に反対していた。王安石は宰相を退いた。翌年に復帰したが、新法党の内部でも対立が起こり、1076年に再び退いて、江寧(いまの南京)に隠棲した。神宗はその後も自ら新法を続けた。一方、司馬光は洛陽にこもって歴史書『資治通鑑』を書き続け、1084年に完成させた。

1085年に神宗が37歳で死ぬと、幼い哲宗の後見となった高太后は、司馬光を呼び戻して宰相にした。司馬光は新法を次々に廃止した。募役法の廃止には、旧法党の蘇軾でさえ反対したが、司馬光は聞かなかった。1086年、王安石は江寧で死に、その半年ほど後に司馬光も世を去った。

争いはこれで終わらなかった。哲宗が親政を始めると新法が復活し、旧法党の人々は南方へ流された。徽宗の時代には、新法党を名乗る宰相蔡京が実権を握り、旧法党の人々の名を刻んだ「元祐党籍碑」を立てて、309人の子孫まで官途から締め出した。新法は、政敵を排除するための看板になっていた。1126年から翌年にかけて、北方の金が開封を落とし、徽宗と欽宗を連れ去った(靖康の変)。北宋は滅んだ。

靖康の変に関わる図版:ChinaHenanKaifeng
靖康の変Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Plastictv~commonswiki assumed (based on copyright claims). · Public domain

北宋の滅亡を、新法の失敗のせいとする見方は、南宋以降の歴史家に根強い。南宋の朝廷は旧法党の流れをくむ学者たちを重んじ、王安石は国を誤らせた人物として描かれた。一方、20世紀になると、王安石を国家による経済の調整を先取りした改革者として評価し直す議論が起こった。改革そのものの是非と、半世紀にわたる党争の弊害を分けて考えるべきだという見方も強い。王安石は詩人・文章家としても知られ、唐宋八大家の一人に数えられる。政敵だった司馬光も蘇軾も、彼の学識と私生活の清廉さは認めていた。

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