概要
神宗が宰相にした。青苗法、募役法、均輸法、市易法、保甲法、方田均税法。国が農民に金を貸し、労役を金で代え、大商人の利を国が取る。司馬光、蘇軾、欧陽修が反対した。「祖宗の法を変えるな」。新法党と旧法党が50年争い、宋は弱った。
場所
開封
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
本文
1067年、神宗が20歳で即位した。宋は西夏と遼に歳幣を払い、官僚は増えて、財政は赤字だった。「富国強兵」。神宗は王安石を呼んだ。1069年、参知政事。翌年、宰相。
新法。青苗法:春、農民に国が金を貸し、秋に2割の利子で返す。地主の高利貸しから農民を守り、国が利子を得る。募役法:労役を金で代納させ、国が人を雇う。均輸法:物資の調達を地方の需給で調整する。市易法:国が商品を買い上げて安く売り、大商人の独占を抑える。保甲法:農民10戸を1保にして訓練し、兵にする。方田均税法:田を測り直して税を公平にする。科挙を詩賦から経義(経書の解釈)に変え、『三経新義』を教科書にした。
反対した。司馬光は「祖宗の法を変えるな。天下の財は一定で、国が多く取れば民が少なくなる」。王安石は「天変は畏れるに足らず、祖宗は法るに足らず、人言は恤うるに足らず」と言った、と伝わる。蘇軾、欧陽修、韓琦、富弼。旧法党。
青苗法は、役人が成績のために貸したくない農民にも貸し、返せない農民が出た。保甲法は農民を疲れさせた。新法党の役人は王安石の言うことを聞く人で固められ、反対は左遷された。
1074年、旱魃。鄭侠が飢えた民の絵を献じた。王安石は辞めた。翌年戻り、1076年に辞めた。神宗が死んだ1085年、司馬光が宰相になって新法を全部止めた。8か月で司馬光が死に、哲宗の親政で新法が戻り、徽宗で新法党の蔡京が「元祐党籍碑」を立てて旧法党309人の名を刻んで追放した。50年争って、金が来て、北宋は滅びた。