概要
トリノの貴族。農業と鉄道と銀行で富み、新聞『リソルジメント』を出し、サルデーニャの首相。クリミアに派兵してナポレオン3世に貸しを作り、1858年、プロンビエールで密約。オーストリアと戦ってロンバルディアを得た。ガリバルディを使って南を得た。1861年3月、イタリア王国。3か月後、死んだ。50歳。「イタリアはできた。イタリア人を作らなければならない」はダゼリオの言葉。
関わったできごと(2)
ガリバルディの千人隊AD1860年5月11日 · 使ったイタリア統一AD1861年 · 首相本文
1810年、トリノ。伯爵の次男。軍の技術学校、要塞の工兵。自由主義で軍を辞めさせられた。家の農場を経営して、化学肥料と輪作と水田で富んだ。鉄道と銀行と汽船に投資した。イギリスとフランスを旅して、議会政治を見た。「自由主義」と「保守」の間。「中道(ジュスト・メッツォ)」。
1847年、新聞『リソルジメント』。1848年、議員。1850年、農商務相。1852年、首相。43歳。
サルデーニャを、鉄道、銀行、通商条約、修道院の廃止、で近代化した。憲法を守った。イタリアの自由主義者の亡命先になった。
1855年、クリミアに1万5000人を送った。理由は言わなかった。1856年、パリ会議で「イタリア問題」を議題にさせた。1858年7月、プロンビエールでナポレオン3世と密約。オーストリアが攻めてきたら、フランスが助ける。ロンバルディアとヴェネツィアをサルデーニャに。ニースとサヴォワをフランスに。ナポレオンの従兄弟にヴィットーリオ・エマヌエーレの娘(15歳)を。オーストリアを挑発した。1859年4月、オーストリアが最後通牒を出した。マジェンタ、ソルフェリーノ。7月、ナポレオンが勝手に休戦した(ヴィッラフランカ)。ロンバルディアだけ。カヴールは激怒して辞めた。1860年1月、戻った。中部イタリアの人民投票。ニースとサヴォワをフランスに(ガリバルディは故郷を売られたと怒った)。
ガリバルディ。止められず、利用した。ローマへ行かせないように、教皇領を通ってサルデーニャ軍を南下させた。テアーノ。
1861年3月17日、イタリア王国。首相。「自由な教会を、自由な国家に」。ローマを首都に、と演説した。6月6日、死んだ。マラリアか、瀉血のしすぎか。50歳。
「イタリアはできた」。カヴールは、イタリア語より、フランス語を話した。