カヴール
概要
トリノの貴族。農業と鉄道と銀行で富み、新聞『リソルジメント』を出し、サルデーニャの首相。クリミアに派兵してナポレオン3世に貸しを作り、1858年、プロンビエールで密約。オーストリアと戦ってロンバルディアを得た。ガリバルディを使って南を得た。1861年3月、イタリア王国。3か月後、死んだ。50歳。「イタリアはできた。イタリア人を作らなければならない」はダゼリオの言葉。
関わったできごと(2)
ガリバルディの千人隊AD1860年5月11日 · 使ったイタリア統一AD1861年 · 首相本文
カミッロ・ベンソ・ディ・カヴールは1810年8月10日、サルデーニャ王国の首都トリノに生まれた。ピエモンテの古い貴族の家の次男で、母はスイスのジュネーヴの出だった。家庭の言葉はフランス語で、彼は生涯、イタリア語よりフランス語を楽に話した。軍の学校を出て工兵の士官となったが、自由主義的な考えを口にして疎まれ、1831年に軍を辞めた。

その後の十数年、カヴールは一族の農場の経営に打ち込んだ。化学肥料や新しい農具、輪作を取り入れ、稲作を広げて利益を上げた。鉄道、銀行、汽船会社にも投資し、財産を大きく増やした。たびたびイギリスとフランスを旅して、議会政治と産業の発展を自分の目で見た。急進的な革命にも、古い絶対王政にも与せず、その間で着実に進むことを、彼は「正しい中間」と呼んだ。
1847年、カヴールは新聞『イル・リソルジメント』を創刊した。リソルジメントとは再興を意味し、この言葉はやがてイタリア統一運動そのものを指す呼び名になる。1848年、1848年革命の中でサルデーニャ王が憲法を発布すると、カヴールは議員に選ばれた。この年サルデーニャはオーストリアと戦って敗れたが、憲法は守られ、サルデーニャはイタリアで唯一の立憲君主国として残った。1850年に農商務相、1852年、42歳で首相となった。

首相としてのカヴールは、まずサルデーニャを近代国家に作り変えた。鉄道を敷き、銀行を整え、外国と通商条約を結び、修道会の一部を廃止して財政を立て直した。イタリア各地から逃れてきた自由主義者たちを受け入れ、トリノは統一を夢見る人々の集まる町になった。
だがカヴールは、サルデーニャの力だけでオーストリアを追い出せるとは考えていなかった。必要なのは大国の後ろ盾である。1855年、彼はサルデーニャとは直接の利害のないクリミア戦争に1万5000ほどの兵を送り、英仏の側に立った。翌1856年のパリ講和会議では、その見返りに、イタリアの現状を議題として取り上げさせた。

1858年7月、カヴールはフランスの温泉地プロンビエールで、ナポレオン3世と密かに会った。オーストリアがサルデーニャを攻めればフランスが援軍を出す。勝てば北イタリアをサルデーニャに与え、その代わりにサルデーニャはニースとサヴォワをフランスに譲る。約束を固めるため、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の15歳の娘クロティルドが、ナポレオン3世のいとこに嫁いだ。カヴールは国境に兵を集めてオーストリアを挑発し、1859年4月、オーストリアは最後通牒を突きつけて攻め込んできた。思惑どおりだった。
フランスとサルデーニャの連合軍は、マジェンタとソルフェリーノでオーストリア軍を破った。ソルフェリーノの戦場の惨状を見たスイス人デュナンは、のちに赤十字を生むきっかけとなる本を書いている(『ソルフェリーノの思い出』)。ところが7月、ナポレオン3世はカヴールに相談もなくオーストリアと休戦してしまった。ヴィッラフランカの休戦で、サルデーニャが得たのはロンバルディアだけだった。カヴールは国王に戦いの継続を迫って激しく言い争い、首相を辞めた。

だが情勢は動き続けた。中部イタリアの諸国では君主が追われ、サルデーニャとの合併を求める声が高まった。1860年1月に首相に戻ったカヴールは、住民投票によってトスカーナなどの併合を実現し、その代わりに約束どおりニースとサヴォワをフランスに譲った。ニース生まれのジュゼッペ・ガリバルディは、故郷を売り渡したとカヴールを激しく非難した。
1860年5月、ガリバルディは義勇兵を率いてシチリアに上陸した(ガリバルディの千人隊)。カヴールはこの冒険を表立っては支持せず、かといって止めもしなかった。ガリバルディがシチリアと南イタリアを制圧し、さらにローマへ向かおうとすると、教皇を守るフランスとの衝突を恐れたカヴールは、サルデーニャ軍を教皇領を通って南へ進ませた。10月、ナポリ近くのテアーノで、ガリバルディは国王を迎え、征服した南イタリアを差し出した。

1861年3月17日、イタリア王国が成立した(イタリア統一)。カヴールはその初代首相となった。残る課題はローマとヴェネツィアだった。彼は議会で、ローマこそがイタリアの首都でなければならないと演説し、教皇には「自由な国家の中の自由な教会」を約束して、交渉で解決しようとした。
だが、そのための時間はなかった。1861年5月末に高熱で倒れ、マラリアとみられる病に、当時の医師たちは繰り返し瀉血を施した。6月6日、カヴールは死んだ。50歳。王国の成立からわずか3か月足らずだった。生涯独身だった。ヴェネツィアは1866年に、ローマは1870年にイタリアに加わり、カヴールの構想は彼の死後に完成した。

統一の後、政治家ダゼリオが言ったとされる言葉に、イタリアはできた、これからイタリア人を作らなければならない、というものがある。フランス語で考え、外交の駆け引きで国を作った首相の生涯は、その言葉の意味をよく表している。