ホセ・マルティ
概要
詩人にして独立運動の組織者。スペインからの独立戦争の緒戦で戦死した。
関わったできごと(1)
ホセ・マルティの死AD1895年5月19日 · 戦死本文
1853年1月28日、スペイン領キューバのハバナで生まれた。父はバレンシア出身の下級軍人、母はカナリア諸島の出で、生まれはスペイン人の家になる。学校で詩人ラファエル・マリア・デ・メンディベに見いだされ、文学と、キューバはスペインから離れるべきだという考えを学んだ。1868年、東部で独立を求める反乱が起き、十年戦争が始まる。マルティは15歳だった。

翌1869年、16歳で逮捕された。友人がスペイン軍の側についたことを責める手紙が見つかったためで、翌年、6年の重労働の刑を受けた。ハバナの石切り場で、足を鎖でつながれて働かされた。このときの傷は生涯残っている。父親の奔走で刑は流刑に変わり、1871年にスペインへ送られた。そこで監獄の実態を書いた小冊子を出し、マドリードとサラゴサの大学で法学と哲学を学んで学位を取った。
以後、亡命の暮らしが続く。メキシコで新聞に書き、グアテマラで教え、十年戦争が終わった1878年にいったんキューバへ戻るが、翌年また陰謀の疑いで追放された。1880年からはニューヨークに住み、1895年までのおよそ15年をそこで過ごす。ブエノスアイレスの新聞『ラ・ナシオン』などに通信を書き送り、アメリカの社会を中南米の読者に伝えた。
そこで見たものを、二つの面から書いている。アメリカの工業の力と、人々の活力は認めた。同時に、その力が南へ向かうことを警戒した。1891年の評論「われらのアメリカ」で、中南米は自分たちの土地の現実から統治のあり方を考えるべきで、ヨーロッパや北米の型を借りてくるべきではない、と論じた。そして、北の隣人は中南米を知らず、侮っている、と書いた。モンロー宣言以来の、北からの「保護」への疑いがそこにある。

詩人でもあった。1882年に、幼い息子に捧げた詩集『イスマエリージョ』を出し、1891年に『素朴な詩』を出した。飾りの少ない、短い詩句で書かれ、スペイン語の近代詩の始まりの一つに数えられる。『素朴な詩』の詩句は、のちに歌「グアンタナメラ」の詞に使われ、キューバの外でも広く歌われるようになった。
1892年、キューバ革命党を作った。資金の出どころは、フロリダのタンパやキーウェストで働くキューバ人の葉巻工場の職人たちだった。マルティは工場を回って演説し、毎週の賃金から少しずつ拠出してもらった。十年戦争の将軍マクシモ・ゴメスとアントニオ・マセオを説いて、もう一度戦うことを承知させた。1895年1月、船と武器を用意した計画はアメリカ当局に差し押さえられたが、それでも同年2月、島で蜂起が始まった。

マルティはゴメスとともに4月11日、東部の海岸に小舟で上陸した。軍の経験は無い。ゴメスは彼に後方にとどまるよう求めていたとされる。5月19日、ドス・リオスで、スペイン軍の部隊と出会った戦闘のなかで、馬に乗って前へ出て撃たれた。42歳。上陸から1か月あまりだった(ホセ・マルティの死)。
死の前日、メキシコの友人あてに書きかけた手紙が残っている。そこで、アメリカについて「私は怪物の中で暮らし、その内臓を知っている」と書いた。キューバの独立が、北の隣国の手が伸びる前に果たされなければならない、という趣旨の手紙だった。

その懸念は3年後に現実になる。独立戦争が続くなか、1898年にアメリカが参戦し(米西戦争)、キューバはスペインから離れたものの、アメリカの強い影響下に置かれた。マルティは、その後のキューバでどの立場の人からも「使徒」として仰がれた。キューバ革命の側も、それ以前の政権の側も、彼の名を掲げている。ハバナの空港も、革命広場の記念塔も、彼の名と像を持つ。