人物

テ・プエア・ヘランギ

Te Puea Hērangi
AD1883年11月9日 – AD1952年10月12日(享年68)
ワイカト(マオリ)重要度 3

概要

第一次大戦の徴兵を拒み、若者を匿った。土地を奪われた者が、その国のために戦う理由は無いと主張する。

関わったできごと(1)

ワイカトの徴兵拒否AD1917年 · 呼びかけ

本文

1883年11月9日、ニュージーランド北島のワイカト地方で生まれた。母方の祖父は、マオリの王の二代目にあたるタウハイアオだった。19世紀の半ば、イギリス人の入植者に土地を売り渡すのを食い止めるため、ワイカトを中心とする部族は自分たちの王を立てた。王の運動と呼ばれる。これに対して植民地政府は1863年に軍を送り(ニュージーランド戦争)、敗れたワイカトの人々は、肥えた土地の多くを罰として没収された。テ・プエアは、その土地を失った人々のなかに生まれた。

ニュージーランド戦争に関わる図版:Auckland-Museum-Tamaki-Paenga-Hira-New-Zealand-Wars-Memorial-Alcove-September-2017
ニュージーランド戦争Wikimedia Commons VPassau · CC0

若いころは奔放で、一族の年長者を困らせたと伝えられる。病気(結核とされる)を患ったこともある。20代の終わり、叔父にあたる王マフタに求められ、選挙の応援に加わったのを機に、一族の政治の表に立つようになった。

1914年、第一次世界大戦が始まった。ニュージーランドはイギリスの自治領として参戦し、マオリの兵も志願で海外に送られた。1916年に徴兵が始まり、翌1917年、マオリにも徴兵が適用された。ただし対象とされたのは、事実上ワイカトとその隣の部族だけだった。志願が少ない部族への罰と受け取られた。テ・プエアは、これを拒むよう呼びかけた(ワイカトの徴兵拒否)。

理由ははっきりしていた。ワイカトの土地は、19世紀の戦争で没収されたままになっている。その土地を返さない国のために、なぜ若者が死ななければならないのか。1840年のワイタンギ条約は、マオリが土地を持ち続けることを認めていたはずだった、という思いもあった。

ワイタンギ条約に関わる図版:Treatyofwaitangi
ワイタンギ条約Wikimedia Commons William Hobson, James Freeman, and James Busby (English version); Henry Williams and Edward Williams (Māori translation) · Public domain

徴兵に応じない若者を、自分の集落に集めてかくまった。1918年、警察と軍が来て、若者たちを連行した。連れ去られた者は軍の施設で厳しく扱われ、命令に従わずに罰を受けた者もいる。テ・プエアは「非国民」と新聞に非難され、ドイツの手先だとまで言われた。

同じ1918年の暮れ、スペイン風邪がニュージーランドにも広がった。マオリの死亡率は入植者の数倍に達した。テ・プエアは病人を集めて看病し、親を失った子どもたちを引き取って育てた。その数は100人ほどになったとされる。

スペイン風邪に関わる図版:Emergency hospital during Influenza epidemic, Camp Funston, Kansas - NCP 1603
スペイン風邪Wikimedia Commons Otis Historical Archives, National Museum of Health and Medicine · Public domain

戦後、彼女はワイカト川のほとり、ンガルアワヒアの荒れた土地を手に入れ、ここを一族の拠り所として開いた。トゥーランガワエワエ、「立つ場所」という意味の名を付けた。湿地を切り開き、畑を作り、集会所を建てた。資金を集めるため、歌と踊りの一座を作って各地を回った。1929年には大きな集会所が完成し、ここはいまもマオリの王の運動の中心になっている。

1930年代には、マオリ出身の政治家アーピラナ・ンガタと組み、政府の土地開発の事業を使って、一族の土地を農地として立て直した。かつて徴兵を拒んで非難された彼女は、やがて政府とも交渉する立場になる。没収された土地への補償を求める交渉にも関わり、1946年、政府はワイカトの人々に毎年の補償金を払うことを法で定めた。

テ・プエア・ヘランギの肖像
テ・プエア・ヘランギの肖像Wikimedia Commons William A Price · Public domain

1933年、王テ・ラータが死ぬと、その子で若いコロキが位を継いだ。テ・プエアは後ろ盾として彼を支え、王の運動の実際の舵取りは、長く彼女が担った。マオリの女性は集会所の前で演説しない、という慣わしのなかで、彼女は人を動かし、金を集め、政府と渡り合った。

1952年10月12日、トゥーランガワエワエで死去した。68歳。土地の没収についての政府の正式な謝罪は、それから40年あまり後の1995年になって行われる。このとき政府は、謝罪とともに土地の一部を返し、補償を支払った。いまニュージーランドで、テ・プエアはマオリの復権運動の先駆けとして評価されている。徴兵を拒んだときの彼女の問い、奪われた側が奪った国のために戦う理由はあるのか、は、植民地を経た多くの土地で、同じ形で問われてきた。

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