人物

フランツ・ファノン

Frantz Fanon
AD1925年7月20日 – AD1961年12月6日(享年36)
フランス領マルティニーク重要度 4

概要

カリブ生まれの精神科医。アルジェリアの病院で拷問する側とされる側の両方を診て、植民地支配が人の心を壊す仕組みを書いた。36歳で死ぬ。

本文

1925年7月20日、カリブ海に浮かぶフランスの植民地マルティニーク島の中心の町フォール=ド=フランスで生まれた。8人きょうだいの5番目で、父は税関の役人、母は小さな店を営んでいた。黒人の中流の家庭で、家ではフランス語を話し、島の言葉クレオール語を使うことは好まれなかった。学校では、フランスの子どもたちと同じ教科書で、われらの祖先ガリア人、と習った。肌の黒い少年たちは、自分をフランス人だと信じて育った。

フランツ・ファノンの肖像
フランツ・ファノンの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

高校で、彼は詩人エメ・セゼールに教わった。パリ帰りの若い教師で、黒人であることを恥じるのではなく誇れ、と説くネグリチュード(黒人性)の運動の旗手である。ファノンはのちにセゼールの考えに距離を置くが、自分の肌の色について考える最初のきっかけを与えたのはこの人だった。

第二次世界大戦中、マルティニークはドイツに協力するヴィシー政権の側についた。島に駐留したフランス海軍の水兵たちは、島の黒人をあからさまに見下した。1943年、18歳のファノンは、ド・ゴールの率いる自由フランス軍に加わるため、ひそかに島を抜け出した(シャルル・ド・ゴール)。北アフリカで訓練を受け、フランスに上陸して戦い、東部の戦線で負傷して勲章を受けた。

チュニスで汎アフリカ圏の作家会議に出席するファノン(1959年・手前)
チュニスで汎アフリカ圏の作家会議に出席するファノン(1959年・手前)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

軍隊の中で、彼は思い知らされた。同じフランスのために命をかけても、黒人の兵士は白人の兵士と同じには扱われない。北アフリカのアラブ人の兵士はさらに低く見られ、その彼らもまた黒人を見下していた。解放されたフランスの町で、白人の娘たちは黒人兵と踊ろうとしなかった。

戦後、奨学金を得てフランスのリヨンで医学を学び、精神科医になった。哲学の講義にも通い、サルトルやメルロ=ポンティを読んだ。1952年、27歳で『黒い皮膚・白い仮面』を出した。黒人が白人の社会の中で生きるとき、何が起きるのか。列車の中で、白人の子どもが彼を指さして、ママ、見て、黒人だ、怖い、と言う場面は有名である。その一言で、自分は一人の人間ではなく、黒人という物として見られていることを知る。支配される側は、支配する側の目で自分を見るようになり、白い仮面をかぶって白人のようにふるまおうとする。人種差別が人の心にどう入り込むかを、臨床医の言葉で分析した本だった。

ジャマー・クラーク射殺事件後のミネアポリス警察署前の抗議の横断幕(2015年)
ジャマー・クラーク射殺事件後のミネアポリス警察署前の抗議の横断幕(2015年)Wikimedia Commons Tony Webster from Minneapolis, Minnesota · CC BY 2.0

同じころ、南フランスの病院で、患者を閉じ込めるのではなく、病院を一つの共同体として治療に生かす新しい精神医療を学んだ。1953年、フランス領アルジェリアの町ブリダの大きな精神病院に、医長として赴任した。彼は病棟の鎖を外し、患者たちが働き、集い、自分たちの新聞を作れる場を作った。アラブ人の患者たちには、フランスの治療法がそのままでは通じないことも学んだ。

1954年11月、アルジェリアで独立戦争が始まった(アルジェリア戦争)。フランス軍は独立を求める民族解放戦線(FLN)の戦士を追い、拷問が広く行われた。ファノンの病院には、拷問を受けて心を病んだアルジェリア人が運ばれてきた。そして同時に、夜ごとの拷問のあと、家で妻や子に暴力をふるうようになったフランス人の警官も、治療を求めてやってきた。拷問される側と、拷問する側。植民地の暴力は、両方の心を壊していた。

彼はひそかに解放戦線を助けるようになった。負傷した戦士をかくまい、治療した。1956年、彼はアルジェリアを統治するフランスの大臣に辞表を出した。人を狂気から救うのが精神科医の務めだが、この国では人間が自分の国の中で異邦人として生きることを強いられている、そのような社会で治療を続けることはできない、という趣旨の手紙だった。翌年、アルジェリアから追放された。

隣国チュニジアの首都チュニスに移り、解放戦線の一員として働いた。病院で医師を続けながら、組織の新聞に論説を書き、アルジェリアの独立を世界に訴えた。1960年には、アルジェリア臨時政府の代表としてガーナの首都アクラに赴き、アフリカ各地の独立運動の指導者たちと会った。この年、アフリカでは17の国が独立していた(アフリカの年)。彼はサハラ砂漠を越えて南から武器を運ぶ道を探る旅にも出ている。

その年の終わり、白血病と診断された。ソ連で治療を受けたが、助かる見込みは少なかった。残された時間で、彼は最後の本を口述した。1961年の夏にはローマでサルトルと会い、3日間語り明かした。サルトルはその本に序文を寄せた。

『地に呪われたる者』は、植民地の人々に向けて書かれた。植民地支配は暴力によって成り立っている。だから、それを打ち破るにも暴力が避けられない、と彼は論じた。同時に、独立したあとの国で、新しい支配者が旧宗主国のまねをして民衆を裏切る危険を、鋭く警告した。暴力を肯定したことで激しい論争を呼んだが、独立後のアフリカで実際に起きたことを予言した本としても読まれている。

病状が悪化した彼は、アメリカの首都近郊の病院に運ばれた。敵視していた国の病院だった。本が出た直後の1961年12月6日、そこで死んだ。36歳だった。遺体はアルジェリアに運ばれ、国境近くの戦士たちの墓地に葬られた。アルジェリアが独立したのは、その7か月後である。彼の本は、アフリカ、アジア、そしてアメリカの黒人の解放運動の中で、繰り返し読まれた。サイードもまた、彼の仕事を受け継いだ一人である(エドワード・サイード)。

動画(1)

Race Historicised: Fanon & Colonial Psychosis | DigiDocsAl Jazeera English精神科医としての仕事と、その診断が本になるまで
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