できごと

名誉革命と権利章典

Glorious Revolution
1688年 – 1689年
期間を持つできごと重要度 5
名誉革命と権利章典に関わる図版:William of Orange III and his Dutch army land in Brixham, 1688
William of Orange III and his Dutch army land in Brixham, 1688 Wikimedia Commons Johan Herman Isings · Public domain

概要

王を替え、王でも議会の同意なしには税を取れないと文書にした。立憲君主制の出発点とされる。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

ジョン・ロックAD1632年8月29日–AD1704年10月28日 · 同じ船で帰った

本文

1688年の秋、イングランドの王は外国から来た軍に国を明け渡し、ほとんど一戦も交えずに逃げた。そして議会が新しい王を迎え、王の権力に条件を付けた文書を受け入れさせた。これが名誉革命である。その40年前、清教徒革命と国王処刑で王を処刑し、共和政を経て王政を戻した国が、今度は流血なしに王を替えたことになる。

1685年に即位したジェームズ2世は、兄チャールズ2世の後を継いだ。問題は、彼がカトリックだったことである。イングランドの国教会と議会の多くは、カトリックの王を、フランスのルイ14世のような専制と結びつけて恐れていた。ジェームズは議会の制定した法を王の権限で停止し、カトリック教徒を軍の将校や官職、大学に登用した。1687年と88年には信仰自由の宣言を出し、国教会の主教たちに教会で読み上げるよう命じた。これを拒んだ7人の主教は投獄され、裁判にかけられたが、陪審は無罪を言い渡し、ロンドンの群衆は歓呼で迎えた。

イングランド国王ジェームズ2世
イングランド国王ジェームズ2世Wikimedia Commons School of Peter Lely · Public domain

それでも、多くの人は待つつもりだった。ジェームズは50代で、跡を継ぐのはプロテスタントの長女メアリだったからである。ところが1688年6月、王妃が男子を産んだ。カトリックの王の家系が続くことになる。数週間後、政界の有力者7人が、メアリの夫であるオランダ総督ウィレム、英語でいうウィリアムに、軍を率いて来てほしいという招請状を送った。ウィリアム自身もチャールズ1世の孫にあたる。

ウィリアムにも思惑があった。オランダはルイ14世のフランスと対立しており、イングランドをフランス側から引きはがし、自分の陣営に引き入れたかった。11月5日、ウィリアムは数百隻の船団と1万5000から2万ほどの兵を率いて、イングランド南西部のトーベイに上陸した。東寄りの風に助けられたこの渡航は、のちに「プロテスタントの風」と呼ばれた。

イングランドへ向かうオラニエ公
イングランドへ向かうオラニエ公Wikimedia Commons J. M. W. Turner · Public domain

ジェームズは軍を集めて西へ向かったが、将校たちが次々にウィリアムの側に走った。のちのマールバラ公ジョン・チャーチルもその一人で、王の次女アンまで夫とともに父のもとを去った。孤立したジェームズは戦わずにロンドンへ戻り、12月、国璽をテムズ川に投げ捨てて国外へ逃れようとした。一度は捕らえられたが、ウィリアムはあえて見張りを緩め、ジェームズはフランスへ去った。殉教者を作らないための計らいだったとされる。

翌1689年の初め、臨時の議会が開かれ、王が国を去ったことをもって王位は空いたと宣言した。2月、議会は権利の宣言を読み上げ、ウィリアムとメアリはこれを受け入れて共同で即位した。宣言は同じ年の暮れに法律として定められ、権利章典と呼ばれる。そこには、議会の同意なしに王が法を停止することはできない、議会の同意なしに税を取ることはできない、平時に議会の同意なしに常備軍を置くことはできない、議員の選挙は自由で、議会での言論は議会の外で問われない、と書かれた。カトリック教徒は王位に就けないことも定められた。

この年の2月、オランダに亡命していたジョン・ロックは、メアリと同じ船でイングランドに帰った。間もなく匿名で出版されたロック『統治二論』は、政府は人々の生命・自由・財産を守るために同意によって作られ、それを裏切る統治者には抵抗できると論じた。名誉革命を後から正当化する書として広く読まれたが、本文の大部分は革命の前に書かれていたとされる。

ロック『統治二論』に関わる図版:Locke treatises of government page
ロック『統治二論』Wikimedia Commons Public domain

制度の変化は、権利章典だけでは終わらない。同じ1689年には、国教会に属さないプロテスタントにも礼拝を許す寛容法ができた。王の戦争に金を出すのは議会であり、議会は毎年開かれなければ予算も軍も回らなくなった。1694年にはイングランド銀行が設立され、議会が保証する国債で戦費を集める仕組みが整う。王の財政を議会が握ったことが、マグナ・カルタ以来の長い綱引きに決着をつけた。

王位の継ぎ方も、議会が決めるものになった。ウィリアムとメアリは子を残さず、メアリは1694年に、ウィリアムは1702年に世を去る。後を継いだメアリの妹アンの子どもたちも、みな早くに亡くなった。議会は1701年の王位継承法で、王はプロテスタントでなければならないと定め、遠縁にあたるドイツのハノーファー家に王位を渡す道筋をつけた。1714年にアンが死ぬと、ハノーファー選帝侯がジョージ1世として迎えられる。血筋の近さより、議会の定めた条件が王を決めたのである。

ウィリアム3世
ウィリアム3世Wikimedia Commons Godfrey Kneller · Public domain

「名誉」や「無血」という呼び名は、イングランドから見たものである。アイルランドでは、カトリックの多くがジェームズを支持し、1690年のボイン川の戦いでウィリアムの軍に敗れた。その後、カトリックの土地や公職、教育を厳しく制限する刑罰法が続く。スコットランドでもジェームズ派の反乱が起き、1692年には新王への忠誠の誓いが遅れたことを口実に、グレンコーの谷でマクドナルド氏族の人々が殺された。ジェームズとその子孫を正統の王とみなす勢力はジャコバイトと呼ばれ、18世紀半ばまで反乱を繰り返した。

この出来事をどう呼ぶかにも議論がある。議会の自由が勝ち取られた革命として称えるのが長い間の通り相場だったが、近年は、オランダによる軍事的な侵攻が成功したものとして捉え直す研究者もいる。いずれにせよ、王が法と議会の同意の上に立つことはできない、という原則がここで文書になった。イギリスの立憲君主制の出発点とされるのはそのためで、のちのアメリカ独立宣言や合衆国の権利章典も、この文書の言葉を受け継いでいる。

動画(1)

111 名誉革命 世界史20話プロジェクト第12話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第111講「名誉革命」

出典(2)

ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソン(鬼澤忍 訳) 『国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源』第7章 転換点
イマニュエル・ウォーラーステイン(川北稔 訳) 『近代世界システム』第II巻(オランダからイギリスへ)

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