ブラジルの奴隷制廃止

概要
西半球で最後の廃止。400万人近くが運ばれた最大の受け入れ国で、ようやく終わった。
場所
-22.91°N -43.17°E · ブラジル
関わった人(1)
ペドロ2世AD1825年12月2日–AD1891年12月5日 · 当時の皇帝本文
1888年5月13日、リオデジャネイロで、わずか2条の法律が署名された。第1条は、この日付をもってブラジルの奴隷制は消滅したと宣言する。第2条は、これに反する規定を廃止する。補償の条項も、移行の期間も無い。「黄金法」と呼ばれるこの法律によって、西半球で最後まで残っていた奴隷制が終わった。
ブラジルは、大西洋奴隷貿易の最大の行き先だった。16世紀に砂糖の農園が始まって以来、アフリカから運ばれて生きて上陸した人々は400万人前後と推計され、大西洋を渡った奴隷全体のおよそ4割にあたる。砂糖、18世紀の金とダイヤモンドの採掘、19世紀のコーヒーと、経済の中心が移っても、それを支える労働は奴隷が担った。奴隷の所有は大農園主だけのものではなく、都市の職人や役人、解放された元奴隷が奴隷を持つことさえ珍しくなかった。社会の隅々まで制度が染み込んでいたことが、廃止を遅らせた。

最初の圧力は外から来た。奴隷貿易を廃止したイギリスは、ブラジルの独立を認める見返りの一つとして貿易の停止を求めた。ブラジルは1831年に奴隷の輸入を禁じる法律を作ったが、ほとんど守られず、「イギリス人に見せるための法律」と揶揄された。業を煮やしたイギリスが自国の海軍にブラジルの奴隷船を拿捕させるようになり、1850年、ブラジルはようやく実効のある禁止法を定めた。
それでも、すでに国内にいる奴隷と、その子どもたちは奴隷のままだった。1860年代、奴隷解放宣言を経てアメリカ合衆国の奴隷制が南北戦争で終わると、ブラジルとスペイン領キューバが、大陸で奴隷制を残す最後の国になった。皇帝ペドロ2世自身は奴隷制を良しとしていなかったとされるが、大農園主を敵に回すことには慎重だった。

改革は段階を踏んだ。1871年の「出生自由法」は、この日以後に奴隷の母から生まれた子を自由とした。ただし、その子は母の主人のもとで成年近くまで働かされることが多く、実際の効果は限られた。1885年には60歳以上の奴隷を解放する法律ができたが、これにも数年の追加労働の条件が付いていた。
1880年代に入ると、廃止運動は社会運動になった。外交官で政治家のジョアキン・ナブコ、技師のアンドレ・レボウサス、ジャーナリストのジョゼ・ド・パトロシーニョらが論陣を張った。自身も幼いころ奴隷として売られたことのあるルイス・ガマは、弁護士として法廷で数百人の解放を勝ち取ったとされる。北東部のセアラ州は1884年、国に先んじて州内の奴隷制を廃止した。

決め手になったのは、奴隷たち自身の行動だった。1880年代の後半、サンパウロのコーヒー地帯では奴隷の大量逃亡が相次ぎ、廃止論者たちは逃亡を手引きし、逃げた人々の共同体をかくまった。軍の将校たちは、逃亡奴隷を追い捕まえる仕事を拒否すると表明した。制度は、法律で止められる前に、内側から崩れ始めていた。
皇帝ペドロ2世はこのとき病気の療養でヨーロッパにいた。摂政を務めていた娘のイザベル皇女が、廃止に慎重な内閣を替え、新しい内閣が法案を出した。議会は数日で可決し、5月13日、イザベルが署名した。この時点で残っていた奴隷は70万人ほどだったとされる。リオの街は祝う人々であふれ、イザベルは「解放者」と呼ばれた。

ローマ教皇レオ13世は、この年、イザベルに黄金のバラを贈ってその決断をたたえた。ただし後の世代の研究者や黒人運動の担い手たちは、廃止を皇女の恩恵として語ることに異を唱えてきた。逃亡し、抵抗し、法廷で争った奴隷たち自身が制度を追い詰めたのだ、という見方である。いまのブラジルでは、5月13日よりも、17世紀の逃亡奴隷の共同体パルマーレスを率いたズンビの命日11月20日が「黒人意識の日」として記念されている。
補償が無かったことは、帝政の足元を崩した。奴隷を財産として持っていた大農園主の多くが、帝政への支持をやめ、共和派に回った。軍の中にも共和主義が広がっていた。1889年11月15日、軍がクーデターを起こして帝政は倒れ、ペドロ2世の一家は国外へ追われた。廃止から1年半後のことである。皇女は一つの人種を解放し、そのために王冠を失った、という言葉が後に語られるようになった。

解放された人々には、何も与えられなかった。土地の分配も、教育も、仕事の保証も無い。多くは同じ農園で、わずかな賃金で働き続けるか、都市へ出て、丘の斜面に住まいを作った。その一方で政府と農園主は、ヨーロッパ、とくにイタリアからの移民に渡航費を補助し、コーヒー農園の労働力に迎えた。そこには、国民を「白く」したいという考えも働いていた。
1890年には、奴隷制に関わる記録を焼却する命令が出された。元の所有者が補償を求める根拠を消すためだったと説明されるが、実際にどこまで焼かれたかは分かっていない。いまのブラジルで、肌の色と所得や学歴の格差が重なっていることの根に、補償も支援も無いまま終わった、この廃止の形があると指摘されている。