概要
コネチカットの農家。イェール在学中に独立戦争。教師になり、イギリスの教科書しかないことに憤って、自分で綴字教科書を書いた(1783年。青い表紙から「ブルーバック・スペラー」と呼ばれ、1世紀で1億部近く売れた)。著作権法の制定を各州に働きかけて回り、アメリカの著作権制度の父とも呼ばれる。26年かけて辞典を編み、20の言語を独学した。晩年は保守的な連邦派の論客として、しばしば孤立した。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
ウェブスターのアメリカ英語辞典AD1828年 · 編んだ本文
1758年10月16日、コネチカット植民地の西ハートフォード。父ノアは農民で、地元の教会の助祭と、民兵の隊長。母マーシーは、プリマス植民地の総督ウィリアム・ブラッドフォードの子孫。
家は、裕福ではない。父は、息子を大学にやるために、農地を抵当に入れた。
1774年、イェール大学へ。16歳。
在学中に**独立戦争**が始まった。大学は疎開し、授業は断続的になった。彼は民兵として父と兄とともに出征したが、戦闘は経験していない。
1778年卒業。
**進路がなかった**。
戦争で経済が混乱し、法律家として開業する道が閉ざされた。彼は**教師**になった。
**憤り**。
教室で使う本が、すべてイギリス製だった。
イギリスの綴り、イギリスの発音、イギリスの地名、そして国王への忠誠を説く文章。
独立を勝ち取ったばかりの国の子どもたちが、それを読んでいる。
彼は書いた。
「**アメリカは、政治において独立したのと同様に、文学においても独立しなければならない**。……ヨーロッパは、技芸においても、統治においても、老いさらばえている。……われわれ自身の言語を持たねばならない」。
そして——
「**言語の統一は、国民の統一である**」。
**ブルーバック・スペラー**(1783年)。
『英語文法教程 第一部』。後に『アメリカ綴字教本』。
青い表紙。安い。薄い。
内容——アルファベット、音節の分け方、綴りの練習表、短い読み物、道徳の格言、そしてアメリカの地名。
これが、爆発的に売れた。
19世紀を通じ、アメリカのほぼすべての学校で使われた。累計、推定**7000万〜1億部**。
(1世紀にわたって、アメリカで最も売れた本の一つ。南北戦争中、南部連合でも使われ続けた。リンカーンも、これで綴りを習った世代である。)
**著作権**。
売れたが、当時のアメリカに、連邦の著作権法はなかった。海賊版が横行した。
彼は、**13の州を回って**、州議会に著作権法の制定を訴えた。次々に成立させた。
1790年、連邦の著作権法が成立した。彼の運動が、その背景の一つである。
このため、彼は「**アメリカの著作権の父**」と呼ばれる。
**政治**。
彼は、憲法の批准を支持するパンフレットを書き(『連邦憲法の諸原理の検討』1787年)、ニューヨークで新聞を編集し(『**アメリカン・ミネルヴァ**』、1793年。連邦派の機関紙)、そして——
疫病の統計を集めて、**黄熱病の伝染についての2巻の研究**(1799年)を書いた。彼は、これが局所的な環境要因によると考えた(誤りだったが、疫学的な統計の集積としては先駆的である)。
政治的には**連邦派**。強い中央政府を支持し、フランス革命を嫌った。ジェファーソンとは激しく対立した(彼はジェファーソンを「無神論者にして扇動家」と呼んだ)。
トマス・ジェファーソンが大統領になった1801年以後、彼は政治的に孤立した。
**辞書**。
1806年、『簡略英語辞典』。3万7000語。
そして、大辞典に取りかかった。
**26年**。
彼は、語源を調べるために、**20以上の言語**を独学した。ヘブライ語、アラビア語、サンスクリット、ギリシア語、ラテン語、ゴート語、アングロサクソン語、ペルシア語、アイスランド語、ロシア語……。
(彼の語源論は、いまから見れば誤りが多い。彼は、聖書の記述に基づき、すべての言語が単一の起源——バベル以前の言語——に遡ると考え、それを実証しようとした。同時代のヨーロッパでは、既に比較言語学が科学として確立しつつあり、彼はその成果を知らなかった、あるいは受け入れなかった。)
1824年、65歳。彼はイギリスとフランスへ渡った。ケンブリッジ大学の図書館で、最後の項目を書き上げた。
**1828年**、70歳。
『**アメリカ英語辞典**』。2巻、7万語。うち1万2000語は、それまでどの英語辞書にもなかった。
**綴り**。
彼が定着させたもの。
colour → **color**、centre → **center**、defence → **defense**、travelled → **traveled**、catalogue → **catalog**、plough → **plow**、musick → **music**、gaol → **jail**、cheque → **check**、waggon → **wagon**。
(すべてが彼の創案ではない。当時のイギリスでも綴りは揺れており、彼は「合理的なほう」を選んで固定した、という面が大きい。)
彼のもっと過激な案——women → wimmen、tongue → tung、machine → masheen、soup → soop——は、定着しなかった。
**売れなかった**。
初版2500部。値段20ドル(当時の労働者の1か月分以上)。
売り切るのに、十数年かかった。彼は、この事業で借金を負った。
**1843年5月28日**、ニューヘイヴンで死去。**84歳**。
その年、印刷業者の**メリアム兄弟**が、遺族から権利を買った。
彼らは値段を6ドルに下げ、改訂を重ね、学校と家庭へ売り込んだ。
**メリアム=ウェブスター**。いま、アメリカで最も標準的な辞書である。
**人柄**。
好かれる人ではなかった。
同時代人は、彼を「うぬぼれ屋」「独善的」と評した。彼は自分の正しさを疑わず、論争では相手を容赦しなかった。
一方で、彼は生涯、公共のために働き続けた。学校の設立、病院の設立、消防団、そして**奴隷制反対**の運動。
エール、アマースト大学の設立に関わった(アマーストの初代理事長)。
彼が言い続けたこと——「**言語は、国民を作る**」——は、彼が死んだ後の世紀に、世界中で、それぞれの形で繰り返された。