人物

ノア・ウェブスター

Noah Webster
AD1758年10月16日 – AD1843年5月28日(享年84)
アメリカ合衆国重要度 3

概要

コネチカットの農家。イェール在学中に独立戦争。教師になり、イギリスの教科書しかないことに憤って、自分で綴字教科書を書いた(1783年。青い表紙から「ブルーバック・スペラー」と呼ばれ、1世紀で1億部近く売れた)。著作権法の制定を各州に働きかけて回り、アメリカの著作権制度の父とも呼ばれる。26年かけて辞典を編み、20の言語を独学した。晩年は保守的な連邦派の論客として、しばしば孤立した。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

ウェブスターのアメリカ英語辞典AD1828年 · 編んだ

本文

ノア・ウェブスターは1758年10月16日、コネチカット植民地の西ハートフォードに生まれた。父ノアは農民で、地元の教会の執事と民兵の隊長を務めていた。母マーシーは、プリマス植民地の総督ウィリアム・ブラッドフォードの子孫である。家は裕福ではなく、父は息子を大学にやるために農地を抵当に入れた。

ノア・ウェブスターの肖像(ジェームズ・ヘリング画)
ノア・ウェブスターの肖像(ジェームズ・ヘリング画)Wikimedia Commons James Herring · Public domain

1774年、彼は15歳でイェール大学に入った。在学中に独立戦争が始まり、大学は町を離れ、授業はとぎれとぎれになった。彼は父や兄とともに民兵として出たが、戦闘には出会っていない。1778年に卒業したものの、戦争で経済は乱れ、法律家として身を立てる道は閉ざされていた。彼は学校の教師になった。

教室で使う本は、どれもイギリス製だった。イギリスの綴り、イギリスの発音、イギリスの地名、そして国王への忠誠を説く文章。独立を勝ち取ったばかりの国の子どもたちが、それを読まされている。彼は、アメリカは政治で独立したように、学問と言葉でも独立しなければならない、と書いた。言葉をそろえることが、ばらばらな13の州を一つの国民にする、と信じていた。

1783年、彼は自分で綴りの教科書を出した。のちに『アメリカ綴字教本』と改題されるこの本は、青い表紙から「ブルーバック・スペラー」と呼ばれた。安くて薄く、アルファベット、音節の区切り方、綴りの練習表、短い読み物、道徳の格言、そしてアメリカの地名が載っていた。これが爆発的に売れた。19世紀を通じてアメリカのほとんどの学校で使われ、1世紀あまりで売れた数は7000万部から1億部と推定される。エイブラハム・リンカーンもこの本で綴りを覚えた世代であり、南北戦争のさなかには南部でも使われ続けた。

南北戦争に関わる図版:Battle of Gettysburg, by Currier and Ives
南北戦争Wikimedia Commons Nathaniel Currier and James Merritt Ives · Public domain

売れはしたが、当時のアメリカには国の著作権法がなく、海賊版が出回った。彼は州から州へと回り、州議会に著作権法を作るよう訴え、次々に成立させた。1790年に連邦の著作権法ができたのも、この運動が下地にある。彼が「アメリカの著作権の父」と呼ばれるのはそのためだ。

政治でも彼は筆をとった。合衆国憲法の批准を支持する小冊子を書き、1793年にはニューヨークで連邦派の新聞を創刊して編集した。強い中央政府を支持し、フランス革命を嫌い、トマス・ジェファソンとは激しく対立した。1799年には各地の疫病の記録を集めて、黄熱病などの流行について2巻の研究を出している。流行の原因を土地の空気や環境に求めたその結論は誤りだったが、記録を大量に集めて比べた点では先駆的だった。ジェファーソンが大統領になった1801年以後、彼は政治の世界で孤立していった。私生活では、1789年にボストンの商人の娘レベッカ・グリーンリーフと結婚し、8人の子をもうけている。暮らしは楽ではなく、のちに一家はマサチューセッツの田舎町アマーストへ移って、物価の安い土地で辞典の仕事を続けた。

1837年に五女エリザにあてた手紙。急進的な奴隷制廃止運動の危険性を警告している。
1837年に五女エリザにあてた手紙。急進的な奴隷制廃止運動の危険性を警告している。Wikimedia Commons Noah Webster · Public domain

1806年、彼は約3万7000語の『簡略英語辞典』を出し、それから大辞典に取りかかった。語の由来を調べるため、20を超える言語を独学した。ヘブライ語、アラビア語、サンスクリット、ギリシア語、ラテン語、ゴート語、古い英語、ペルシア語……。ただ、その語源の説明は、いま見れば誤りが多い。彼は聖書の記述をもとに、すべての言語はバベルの塔以前の一つの言葉にさかのぼると考え、それを示そうとした。同じころヨーロッパでは比較言語学が学問として固まりつつあったが、彼はその成果を知らなかったか、受け入れなかった。

1824年、65歳の彼は資料を求めてフランスとイギリスへ渡り、ケンブリッジ大学の図書館で最後の項目を書き上げた。1828年、70歳で『アメリカ英語辞典』を出した(ウェブスターのアメリカ英語辞典)。2巻で約7万語、そのうち約1万2000語は、それまでどの英語の辞書にも載っていなかった語である。

ノア・ウェブスターの肖像(サミュエル・モース画)
ノア・ウェブスターの肖像(サミュエル・モース画)Wikimedia Commons Samuel Finley Breese Morse · Public domain

いまのアメリカ式の綴りの多くは、彼が定めたものだ。色を表す語から u を落とし(colour を color に)、語尾の re を er にし(centre を center に)、子音字を重ねないようにした(travelled を traveled に)。もっとも、すべてが彼の考えではない。当時はイギリスでも綴りが揺れていて、その中から筋の通るほうを選んで固めた、という面が大きい。舌を意味する語を tung と書くような、もっと大胆な案は根づかなかった。

辞典はすぐには売れなかった。初版は2500部、値段は20ドルで、労働者の1か月分の稼ぎを超えた。彼はこの事業で借金を背負った。1843年5月28日、彼はニューヘイヴンで死んだ。84歳だった。同じ年、印刷業者のメリアム兄弟が遺族から権利を買い取り、改訂して値段を6ドルに下げ、学校と家庭へ売り込んだ。こうしてできたメリアム=ウェブスターの辞書が、いまアメリカで最も標準とされる辞書である。

ウェブスターの英語辞典出版趣意書「合衆国の文芸の友へ」(1807-1808年)
ウェブスターの英語辞典出版趣意書「合衆国の文芸の友へ」(1807-1808年)Wikimedia Commons Noah Webster · Public domain

好かれる人ではなかった。同時代の人々は彼をうぬぼれ屋で独りよがりだと評した。自分の正しさを疑わず、論争では相手に容赦しなかった。一方で彼は生涯、公共のために働いた。学校づくりにかかわり、アマースト大学の創設では初代の理事長を務め、コネチカットで奴隷制に反対する協会の設立にも加わった。言葉が国民を作るという彼の信念は、死後の世紀に、世界中の国々でそれぞれの形でくり返されることになる。イギリスでは70年あまり前の1755年にサミュエル・ジョンソンが一人で英語辞典を編んでいた。ウェブスターはそれに、アメリカの辞書で応えたのである。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1758年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →