金印勅書

概要
皇帝を選ぶ七人の選帝侯を文書で確定した。教皇の関与を締め出し、選挙の手続きを法にする。
場所
49.45°N 11.08°E · ドイツ・バイエルン州
本文
神聖ローマ帝国の皇帝は、血筋で継ぐ位ではなかった。有力な諸侯が集まって「ローマ王」を選び、その王が教皇の手で戴冠されて皇帝になる。オットー1世の戴冠以来の形である。だが、誰が選ぶ権利を持つのか、どう決めるのかは、慣習があるだけで文書になっていなかった。
決まりが無いことは、争いを生んだ。1314年には二人の王が別々に選ばれ、8年にわたって戦った。勝ったルートヴィヒ4世は、アヴィニョンの教皇ヨハネス22世から承認を拒まれ、破門された(教皇のアヴィニョン捕囚)。これに対して選挙権を持つ諸侯は1338年、選ばれた王は教皇の承認なしに王である、と宣言している。

勅書を出したのはカール4世である。ルクセンブルク家の出で、ボヘミア王としてプラハを都に定め、1355年にローマで皇帝として戴冠した。翌1356年1月、ニュルンベルクの帝国会議で前半の23章を、同じ年の暮れにメッツで残りの章を公布した。金の印章(ブッラ)が付けられていたことから、金印勅書と呼ばれる。
カール4世は武力より文書と交渉で治める君主だった。1348年にはプラハに中欧で最初の大学を開き、町を帝国の中心にふさわしい都に造り変えた。勅書を出した年は、黒死病がヨーロッパを襲ってから10年もたっていない。諸侯の争いを手続きで抑え込むことは、王家にとっても諸侯にとっても損の無い取り引きだった。
選ぶのは七人と定めた。聖職者からはマインツ、ケルン、トリーアの三大司教。世俗の諸侯からはボヘミア王、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯。選挙はフランクフルトで行い、マインツ大司教が召集する。過半数で決まり、全員一致は要らない。候補者が選帝侯自身なら、自分に票を入れてもよい。
選挙が長引くことへの備えも書き込まれた。選帝侯がフランクフルトに入ってから30日たっても決まらなければ、その後はパンと水だけで過ごさねばならない。式典での席順、行列の順、宴で誰が皇帝に食事を運ぶかまで、細かく定められている。選帝侯たちは帝国の大膳頭や大侍従といった名誉の職を兼ね、それが席次の根拠になった。
教皇の承認については、ひと言も書いていない。皇帝の位が空いたあいだの代理も、ライン宮中伯とザクセン公が務めると定めた。教皇は空位のあいだの代理を自分が務めると主張してきたが、その余地を文書の上から消したことになる。
選帝侯の特権も並べた。領地は分割してはならず、世俗の選帝侯家は長子が継ぐ。領内の鉱山、貨幣の鋳造、関税を握り、領民が皇帝の法廷へ訴え出ることも封じた。選帝侯に危害を加える企ては、皇帝に対する反逆と同じ罪とされた。世俗の選帝侯の息子は、ドイツ語に加えてイタリア語とスラヴ語を学ぶべきだ、という条項まである。
七人から外された家は不満を抱いた。オーストリアのハプスブルク家のルドルフ4世は、すぐに古い特許状を偽造して、自分の家にも選帝侯と並ぶ特権があると主張した。この偽文書は、のちにハプスブルク家が皇帝の位を握ると、正式に認められてしまう。
皇帝を強くする文書ではなかった。むしろ七人の諸侯を小さな王に近づけ、帝国が多くの領邦の寄り合いであることを法に書き込んだ。カール4世は、自分の家がボヘミア王として選挙権を確保し、帝位を家の中で受け継げれば十分だと考えていたとされる。
勅書はその後450年、帝国が消える1806年まで基本法であり続けた。15世紀からはハプスブルク家がほぼ途切れずに選ばれ続ける。選帝侯の顔ぶれは三十年戦争で揺らぎ、ウェストファリア条約で8人目が加えられた。誰が皇帝を作るのかを決めた文書は、帝国の終わりまで、その形を縛った。