張居正
概要
湖広江陵。10歳の万暦帝の首輔(宰相格)として10年、明の後期で唯一、財政を立て直した。考成法(官吏の実績を帳簿で管理する)、全国の検地(隠された土地を洗い出した)、一条鞭法、戚継光を北の守りに置いた。厳しく、専断で、恨まれた。死んだ2年後、皇帝が家を捜索させ、爵位を剥奪し、一族を追い込んだ(長男は自殺)。40年後、名誉が回復された。
所属
明関わったできごと(1)
一条鞭法AD1581年 · 改革した本文
張居正は、1525年、長江の中流の町、湖広の江陵(いまの湖北省荊州)に生まれた。家は貧しい身の上から身を起こしたと伝えられ、父は科挙の試験に落ち続けた人だった。張居正は幼いころから神童として知られ、12歳で地方の学校の生員の資格を得た。次の段階の試験では、13歳で合格するはずの答案を書いたが、湖広の巡撫だった顧璘が、若すぎるうちに挫折を知らずに出世すると大成しない、と考えてわざと落とした、という話が伝わる。顧璘は自分の帯を少年に与え、君は古の名宰相のような人物になる、と励ましたという。彼は16歳で挙人に、23歳で最高の試験に合格して進士になった。

都の北京で、彼はまず学者の官僚として翰林院に入った。当時の明の朝廷は、20年にわたって権勢をふるった宰相の厳嵩と、それに対抗する徐階の争いの中にあった。張居正は徐階に目をかけられた弟子で、争いの渦中で慎重に身を処した。厳嵩が失脚し、1567年に隆慶帝が即位すると、張居正は皇帝の補佐にあたる内閣に入った。1572年、隆慶帝が亡くなり、わずか10歳の万暦帝が即位した。張居正は、幼い皇帝の生母である李太后と、宮中の宦官の実力者の馮保と手を組み、内閣の首席にいた高拱を追い落として、自ら首席の大学士、首輔となった。ここから10年、張居正は明の政治を事実上ひとりで動かすことになる。
明はこのころ、深い病を抱えていた。役所は書類を回すばかりで仕事は進まず、地方の有力者は土地を隠して税を逃れ、国の財政は赤字が続いていた。北からはモンゴルが、南の海からは倭寇が攻め寄せていた。張居正の改革は、まず役人を動かすことから始まった。1573年に始めた考成法では、各役所に仕事の予定と期限を帳簿に記録させ、その写しを監察の役所と内閣にも送らせた。期限までに終わらなければ、担当の役人が処分される。役所の仕事が初めて帳簿で管理され、命令が地方の末端まで届くようになった。

次は土地と税だった。1578年から、彼は全国の田畑を測り直す検地を命じた。有力者や皇族が隠していた土地、勝手に税を免れていた土地が、次々に帳簿の上に現れた。統計の上の耕地は大きく増えたが、それは新しく開かれたのではなく、隠されていた土地が見つかったのである。そのうえで1581年、税と労役をひとまとめにし、銀で納めさせる一条鞭法を全国に広げた。複雑に入り組んでいた負担が、銀の額という一本の物差しで測られるようになった。アメリカ大陸の銀(ポトシ銀山の開発)が太平洋を渡りマニラを経て(マニラ・ガレオン貿易)、また日本の石見銀山などの銀が流れ込んだことが、この仕組みを支えた。
同時に、彼は無駄を徹底して削った。宮廷の費用、皇族への手当、不要な役職を減らし、地方からの税の取り立ての滞りを厳しく責めた。その結果、彼が亡くなるころには、国の倉に数年分を超える銀と穀物が積まれていたといわれる。財政が健全だったのは、明の後半の時代でこの十年あまりだけだったとも評される。

北の守りでは、倭寇との戦いで名を上げた将軍の戚継光を、北京の北の要地に置き、長城を修築させて、物見の台を築かせた。遼東には李成梁を置いた。張居正が首輔になる直前の1571年には、モンゴルのアルタン・ハンと和議が結ばれ、国境に馬を売り買いする市が開かれていた。張居正はこの和議を守り続け、北の国境はその後長く大きな戦いを免れた。黄河と淮河の治水には潘季馴を任じ、堤で流れを狭めて勢いを強め、土砂を海へ押し流すという考えで、たびたびの水害を抑えた。
張居正は、幼い皇帝の教育にも心を砕いた。歴代の皇帝の善い行いと悪い行いを絵入りで説いた本を作って献じ、毎日の学習の日課を課し、怠ければ厳しく諫めた。李太后は、言うことを聞かない息子に、張先生に知らせますよ、と言ったという。皇帝にとって張居正は、師であり、恐ろしい監督でもあった。
だが、張居正のやり方は、多くの敵を作った。各地の書院が、王陽明の学派の講義の場として政治を論じるようになっていたのを嫌い、1579年には全国の書院を廃止させた。改革に異を唱える言論は押さえつけられた。彼自身も清廉一筋ではなく、宦官と結び、贈り物を受け取った。故郷へ帰るときには、32人で担ぐ豪華な輿を使ったとも伝えられる。
決定的だったのは、1577年の父の死だった。当時の官僚は、親が亡くなれば職を離れて27か月の喪に服するのが決まりだった。張居正は、皇帝の特別の命令で喪に服さず職にとどまる道を選んだ。改革を途中で止めるわけにはいかないと考えたのだろうが、これは儒教の孝の道に背くものとして、官僚たちの激しい非難を浴びた。張居正は、自分を批判した官僚たちを朝廷で棒で打たせる刑に処した。この一件で、彼への恨みは決定的なものになった。
1582年7月9日、張居正は病で亡くなった。57歳だった。皇帝は手厚い諡と最高の位を贈って死を悼んだ。だが、それは長くは続かなかった。20歳になった万暦帝は、子どものころから抑えつけられてきた鬱屈を晴らすかのように、政敵たちの弾劾を受け入れた。1584年、張居正は生前の官位と名誉を奪われ、家の財産は没収された。役人が江陵の屋敷を封じたため、閉じ込められた家族の十数人が飢えて死んだ。長男は厳しい取り調べのあと、天を恨む遺書を残して自ら命を絶った。一族の者たちは辺境に流された。
張居正の死後、改革の多くは止まった。万暦帝は、やがて政務への関心を失い、長いあいだ朝廷に姿を見せなくなった。国庫の蓄えは、朝鮮に攻め込んだ日本の軍との戦い(文禄・慶長の役)などの大きな戦争と、宮廷の浪費で使い果たされた。北では、ヌルハチ(ヌルハチ)が女真の部族をまとめ始めていた。張居正の名誉が回復されたのは、死後40年ほどたった天啓帝の時代で、さらに崇禎帝が官位を戻した。だが、そのときにはもう、明の命運は尽きかけていた。

張居正の改革は、ひとりの強い権力に支えられていたからこそ進み、その人が亡くなると同時に崩れた。彼は、明が立ち直る最後の機会だったと評されることが多い。有能な改革者であり、専横な権力者でもあった彼の評価は、いまも分かれている。