恐怖政治

概要
革命を守るために、疑わしい者を裁判抜きで処刑した。正式な死刑判決だけで約1万6千人が処刑され、最後にロベスピエール自身が処刑されて終わる。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
マクシミリアン・ロベスピエールAD1758年5月6日–AD1794年7月28日 · 主導。最後に処刑された本文
1793年の初め、フランスは国王を処刑した(ルイ16世の処刑)。それから半年で、革命は内と外から追いつめられていく。オーストリア、プロイセン、イギリス、スペインなどが対仏大同盟を組んで国境に迫った。3月には西部のヴァンデで、徴兵に反発した農民が大規模な反乱を起こす。パンの値は上がり、パリの民衆は物価の統制を求めて騒いだ。
議会である国民公会の中でも、穏健なジロンド派と急進的なジャコバン派の山岳派が激しく争った。6月、パリの民衆が議会を囲み、ジロンド派の議員たちが追放される。それに反発してリヨン、マルセイユ、ボルドーなどの地方都市が中央に背き、南の軍港トゥーロンは港をイギリス艦隊に明け渡した。7月には、民衆に人気のあった急進派の記者マラーが、ジロンド派に共鳴する若い女性に刺殺された。フランス革命は、国の半分を敵に回したように見えた。

権力は、議会に置かれた公安委員会に集まっていった。7月、弁護士出身のジャコバン派の指導者マクシミリアン・ロベスピエールがその一員になる。9月5日、パリの民衆がふたたび議会になだれ込み、議会は「恐怖を日程に載せる」ことを宣言した。二週間後に通ったのが、反革命容疑者法だった。貴族の身内、亡命者の家族、言動や交友から革命の敵と疑われる者を、具体的な罪の証拠がなくても拘束できる。全国の監獄が、たちまち人であふれた。
10月16日、元王妃マリー・アントワネットがギロチンにかけられた。続いてジロンド派の議員たち、女性の権利を唱えた劇作家オランプ・ド・グージュが処刑される。12月には、平和が来るまで政府は革命的である、と宣言され、憲法の施行は棚上げにされた。物価には上限が定められ、教会は閉じられ、暦まで作り替えられた(十日の週)。

地方では、さらに苛烈だった。反乱の鎮圧に送られた派遣議員たちは、リヨンで捕虜を大砲で並べて撃ち、ナントでは囚人を船に詰めてロワール川に沈めた。ヴァンデの戦いでは、兵と民の区別なく村が焼かれた。この内戦の死者は、恐怖政治の処刑とは別に、十数万にのぼると推定されている。
ロベスピエールは、この恐怖を理屈で支えた。1794年2月の演説で、平時の人民の政府の原動力は徳だが、革命の時の原動力は徳と恐怖の両方だ、と述べている。徳のない恐怖は害悪であり、恐怖のない徳は無力だ、と。彼にとって恐怖は、徳ある共和国を守るための、迅速で厳しい正義だった。清廉で私欲がなく、「清廉の人」と呼ばれた男だった。

刃は、革命派自身にも向いた。1794年3月には、さらに過激な主張をするエベール派が処刑された。4月には、恐怖をゆるめるべきだと言い出したダントンと、その友人の記者デムーランが続く。ダントンは処刑台で、自分の首を民衆によく見せてやれ、それだけの値打ちはある、と言ったと伝えられる。5月には、近代化学の父アントワーヌ・ラヴォアジエが、旧体制の徴税請負人だったという理由で首を落とされた。
6月10日に成立したプレリアール22日法は、革命裁判所での弁護人をなくし、証人調べも省けるようにした。判決は、無罪か死刑のどちらかしかない。パリではそれから7週間で、それまでの1年あまりに匹敵する1400人ほどが処刑された。「大恐怖」と呼ばれる。そのころには、6月のフルーリュスでの勝利で、外国軍の脅威は遠のき始めていた。

数字にすると、革命裁判所などの正式な死刑判決は全国で1万6千から1万7千人ほど、そのうちパリで2600人ほどになる。裁判なしに殺された人や、獄中で死んだ人を含めれば、数万に達すると見られる。処刑された者の多くは、貴族でも聖職者でもなく、農民や職人だった。
7月26日、ロベスピエールは議会で長い演説を行い、名前を挙げないまま、議会の中に粛清すべき裏切り者がいると告げた。次は自分かもしれない。議員たちは恐れ、翌日、革命暦テルミドール9日、ロベスピエールとその仲間を逮捕させた。パリ市庁舎に逃れた彼は、踏み込まれた混乱のなかで顎を撃ち砕かれた。法の保護の外に置かれた者として、裁判は開かれない。7月28日、本人確認だけでギロチンにかけられた。2日前には、詩人アンドレ・シェニエが処刑されていた。

自分が作った手続きで、彼は死んだ。恐怖政治はその日に終わり、監獄は開かれ、ジャコバン・クラブは閉鎖された。だが、権力を握った穏健派の政府は不安定で、軍の力に頼るようになっていく。その中から現れたのが、若い将軍ナポレオン・ボナパルトだった。人権を掲げて始まった革命が、なぜこれほどの流血に至ったのか。外からの戦争と内乱のためか、革命の理念そのものに理由があったのか。その問いは、のちのすべての革命について繰り返されることになる。