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Event / できごと

薩摩の琉球侵攻

Satsuma invasion of Ryukyu
AD1609年4月5日(慶長14年3月)
重要度 5

概要

島津家久が3000で奄美から攻め下り、1か月で首里城を開かせた。尚寧王は薩摩と江戸へ連れて行かれ、2年後、「琉球は薩摩に属する」と誓って戻された。奄美は薩摩の直轄に。琉球は、明(のち清)に朝貢しながら、薩摩に年貢を納める「日中両属」になった。薩摩は琉球を通した中国の産物で財を作り、その財が幕末の薩摩を動かした。

場所

首里
26.22°N 127.72°E · 沖縄県那覇市

関わった人(2)

島津家久AD1576年–AD1638年 · 攻めた尚寧王AD1564年–AD1620年 · 開いた

本文

1591年、秀吉が朝鮮出兵の兵糧を琉球に課した。琉球は半分だけ出した。1602年、琉球の船が仙台に漂着して、家康が送り返し、その礼の使者を求めた。琉球は送らなかった。薩摩は、幕府に「琉球を討つ許可」を求めた。1606年、家康が許した。

理由。琉球が礼を尽くさない、というのは名目。薩摩は関ヶ原の負け組で、朝鮮出兵と関ヶ原で財政が傾いていた。琉球を通した中国との交易の利が要った。

1609年3月4日(旧暦)、山川港。樺山久高を大将、平田増宗を副将に、3000人、船100隻。奄美大島(3月8日)、徳之島、沖永良部島。琉球の抵抗は弱かった。3月26日、本島の運天港。今帰仁城を焼いた。陸から首里へ。

首里。尚寧王は、三司官の謝名利山(じゃな・りざん、鄭迵。久米村の出で、明に留学した強硬派)が徹底抗戦を主張したのを退けて、和睦を選んだ。4月1日(グレゴリオ暦5月5日)、開城。戦闘は1か月で終わった。

尚寧王と、三司官と、王子と、百官100人余りが、鹿児島へ連れて行かれた。1610年、駿府で家康に、江戸で秀忠に会った。江戸への「上り」の行列は、異国の使節として見せ物になった(以後、江戸時代を通して、琉球は「慶賀使」「謝恩使」を江戸へ送り、幕府はそれを「異国の朝貢」として演出した)。

1611年、起請文。「琉球は昔から薩摩に属する」「奄美諸島を薩摩に割譲する」「年貢を納める」「掟十五条を守る」。謝名利山だけが署名を拒んで、斬られた。尚寧王は帰った。

以後。琉球王国は残った。明(1644年から清)に朝貢を続けた。中国の使節(冊封使)が来るときは、薩摩の役人は隠れ、日本風の物を片づけた。中国には「日本に従っていること」を隠した。同時に、薩摩に年貢(米8000石余り)を納め、在番奉行が那覇に置かれ、検地と人口調査が行われた。「日中両属」。

薩摩の利。琉球を通して、中国の生糸と薬種を得た。琉球で作らせた黒砂糖。18世紀から19世紀、薩摩の財政は、砂糖と、琉球経由の交易(「唐物抜荷」)で支えられた。調所広郷の改革(1830年代)は、奄美の砂糖の専売を厳しくした(島民は「砂糖地獄」と呼んだ)。その財が、幕末に西洋の艦と銃を買う金になり、薩摩が幕府を倒す力になった。

奄美は、1609年から、薩摩の直轄。琉球でも、日本でもない扱いを、260年受けた。

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