薩摩の琉球侵攻

概要
島津家久が3000で奄美から攻め下り、1か月で首里城を開かせた。尚寧王は薩摩と江戸へ連れて行かれ、2年後、「琉球は薩摩に属する」と誓って戻された。奄美は薩摩の直轄に。琉球は、明(のち清)に朝貢しながら、薩摩に年貢を納める「日中両属」になった。薩摩は琉球を通した中国の産物で財を作り、その財が幕末の薩摩を動かした。
場所
26.22°N 127.72°E · 沖縄県那覇市
関わった人(2)
島津家久AD1576年–AD1638年 · 攻めた尚寧王AD1564年–AD1620年 · 開いた本文
15世紀に尚氏が島を一つにまとめて以来(琉球王国の統一)、琉球王国は明の皇帝から王に任じられる冊封を受け、明への朝貢と、日本・朝鮮・東南アジアを結ぶ中継の交易で栄えてきた。日本とは、薩摩の島津氏を窓口に、対等に近い付き合いをしていた。その関係を変えたのは、日本の天下統一である。
1589年、豊臣秀吉は島津氏を通じて琉球に使者を求め、琉球は天下統一を祝う使節を送った。秀吉はこれを服属のしるしと受け取った。1591年、朝鮮へ攻め込む準備にあたって(文禄・慶長の役)、秀吉は琉球に7000人分の兵糧を10か月分出すよう命じた。島津氏の与力という扱いである。明の冊封を受ける国として、明を攻める戦の費用を出すわけにはいかない。琉球は求められた量の半分ほどを出しただけで、残りをうやむやにした。

秀吉が死に、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が天下を取ると、問題は新しい形で持ち上がった。家康は、朝鮮出兵で断たれた明との国交と貿易を取り戻したかった。琉球はその仲立ちになりうる。1602年、琉球の船が陸奥の伊達領に流れ着いた。家康は乗組員を手厚く送り返させ、その礼を述べる使者を江戸へ寄こすよう、島津氏を通じて求めた。琉球の王府は応じなかった。明への遠慮もあり、また王府の中に、日本と距離を置こうとする意見が強かったからである。
島津氏には、別の事情もあった。関ヶ原で西軍についた島津家は、家康との交渉で領地こそ守ったものの、朝鮮出兵と関ヶ原の出費で財政は傾き、家中の不満もくすぶっていた。琉球を押さえ、その交易の利を握ることは、藩を立て直す道でもあった。島津氏は琉球を討つ許しを幕府に願い、1606年、家康はそれを認めた。琉球が礼を欠いているというのは、その名目だった。

1609年3月4日(旧暦)、薩摩半島の山川港から、樺山久高を大将、平田増宗を副将とする約3000人の兵が、80隻から100隻ほどの船で出発した。藩主の島津家久は鹿児島にとどまった。兵の多くは朝鮮や関ヶ原の戦を経た者で、鉄砲を十分に持っていた。対する琉球は、長く大きな戦をしておらず、武器も兵も乏しかった。軍は奄美大島、徳之島、沖永良部島を順に押さえて南下した。徳之島では島の人々が抵抗して戦いになったが、まとまった反撃はなかった。3月の終わり、軍は沖縄本島北部の運天港に上陸し、今帰仁のグスクを焼いた。そこから陸と海の二手で那覇と首里へ迫った。那覇の港の入口では王府の兵が鎖と砲で船を防いだが、陸から回り込まれて首里は囲まれた。
首里城の中で、王府の意見は割れた。三司官(王府の最高の官)の一人、謝名親方利山は、徹底して戦うことを主張した。彼は那覇の久米村の出身で、明の国子監で学んだ人物だった。尚寧王王は和睦を選び、4月の初め、首里城は明け渡された。薩摩の軍が山川を出てから、ひと月ほどのことである。城の宝物や記録の多くは、薩摩の兵によって運び出された。

尚寧王は、王子や三司官ら100人ほどとともに鹿児島へ連れて行かれた。1610年、王は駿府で家康に、江戸で将軍秀忠に会った。家康は王を手厚くもてなし、琉球の王統を絶やさないことを認めた。琉球を滅ぼすより、王国として残し、明との窓口として使うほうが得だったからである。1611年、尚寧王は鹿児島で起請文を出した。琉球は昔から島津氏に従う国であり、その恩に背かないこと、奄美の島々を薩摩に差し出すこと、年貢を納めることを誓い、薩摩が定めた「掟十五条」を受け入れた。三司官のうち謝名親方だけが署名を拒み、斬られた。王はこの年、2年半ぶりに首里へ帰った。
琉球王国はこのあとも王国として続いた。王は明の、1644年以後は清の冊封を受け続け、朝貢の船を出し続けた。その一方で、薩摩から米で8000石余りに当たる年貢を課され、検地が行われ、那覇には薩摩の役人が常駐するようになった。中国の冊封使が来るあいだ、薩摩の役人は那覇から離れた村に身を隠し、日本風の品は人目から片づけられた。中国に対しては日本に従っていることを伏せ、日本に対しては中国の冊封国であることを利用する。こうした二重の立場は「日中両属」と呼ばれる。将軍の代替わりや琉球の王の即位のたびに、琉球は慶賀使・謝恩使を江戸へ送った。異国風の装いで街道を行く行列は、幕府の威光が異国にまで及んでいることを見せる舞台として使われた。鎖国の完成のもとで、幕府が外の世界と接する「四つの口」の一つ、薩摩口の先にあったのが琉球である。

奄美の島々は薩摩の直轄地になり、琉球とも本土とも違う扱いを受けた。薩摩は奄美で黒砂糖を作らせ、19世紀の調所広郷による藩財政の立て直しでは、砂糖を一手に買い上げる仕組みを厳しくした。島の人々にとってそれは重い負担で、のちに「黒糖地獄」と呼ばれた。琉球を通じて入る中国の生糸や薬種、そして密かに広げた交易の利もまた、薩摩藩の財政を支えた。幕末の薩摩が西洋の艦船や銃を買い、幕府を倒す側の中心に立てたのは、この蓄えがあったからだとよく言われる。260年余り続いた両属の形は、明治政府が琉球を沖縄県とした1879年の琉球処分で終わった。