
概要
第一次大戦とロシア革命の後、国籍を失った人が数百万人いた。旅券がなければ国境を越えられず、働けず、しかしどこにも帰れない。国際連盟の難民高等弁務官フリチョフ・ナンセン(探検家である)が、無国籍者に発行する身分証を作らせた。52か国が受け入れ、45万人以上が使った。ストラヴィンスキー、シャガール、ラフマニノフ、ナボコフが持った。旅券という近代の装置が、逆に、旅券を持てない人を作り出したことへの、最初の応急処置だった。
場所
46.20°N 6.14°E · スイス(CERN・国際機関)
関わった人(1)
フリチョフ・ナンセンAD1861年10月10日–AD1930年5月13日 · 作らせた本文
**旅券という制度**。
第一次大戦の前、ヨーロッパの多くの国で、旅券は**必要なかった**。
イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの間を、身分証明なしで行き来できた。切符を買って、乗る。
(ロシアとオスマン帝国は例外で、厳格な旅券制度があった。)
シュテファン・ツヴァイクが『**昨日の世界**』に書いている。
「1914年以前、地球は**すべての人のもの**だった。……人は行きたいところへ行き、好きなだけ留まった。許可も、認可も、なかった。……いまの若い人々に、**旅券なしで国境を越えられた**と話しても、信じてもらえないだろう」。
**戦争が、これを終わらせた**。
各国が、スパイと脱走兵と敵国人の移動を管理するため、旅券と査証を導入した。
戦争が終わっても、**戻らなかった**。
**無国籍者**。
そして、戦後、国籍を失った人が大量に現れた。
**(1)ロシア人**。
1917年の革命と内戦で、100万人以上がロシアを出た。貴族、将校、知識人、そして一般の市民。
1921年12月、ソヴィエト政府が布告を出した。**国外に5年以上いる者、白軍に加わった者などの国籍を剥奪する**。
一夜にして、**80万〜100万人**が無国籍になった。
**(2)アルメニア人**。
1915年からのオスマン帝国による大量殺害と追放を逃れた人々。オスマン帝国が消滅し、新しいトルコ共和国は彼らを国民と認めなかった。
**(3)その他**。ハプスブルク帝国、オスマン帝国、ロシア帝国の崩壊で生じた、境界の変更に取り残された人々。アッシリア人、カルデア人、トルコからのギリシア人。
**無国籍であるということ**。
旅券がなければ、
- **国境を越えられない**(不法入国になる) - **合法的に働けない**(労働許可が出ない) - **結婚を登録できない** - **子を登録できない** - **強制送還されようにも、送り返す先がない**
彼らは、いる場所から追い出され、しかし、どこにも受け入れられない。
**ハンナ・アーレント**(彼女自身、1933年から1951年まで無国籍だった)が、後に書いた。
無国籍者は「**権利を持つ権利**(the right to have rights)」を失っている。
人権は、人であるだけでは保障されない。それは、**国家がその人を国民と認めることによって**、初めて保障される。国家を失った人は、人権の枠組みそのものの外に出てしまう。
**ナンセン**。
**フリチョフ・ナンセン**。1861年、ノルウェー生まれ。
**探検家**である。
- 1888年、**グリーンランド横断**(史上初)。彼は、退路を断つため、無人の東岸から出発して西へ向かった。 - 1893〜96年、**フラム号**。北極の氷に船をわざと閉じ込め、氷とともに漂流して極点に近づく、という前例のない計画。船は極点に達しなかったので、彼は船を離れ、犬橇と徒歩で北緯86度14分——当時の最北記録——に達し、そして1年以上、氷と島で生き延びて帰還した。 - 動物学者(神経系の研究でノーベル賞級の業績とされる)、海洋学者。 - 1905年、ノルウェーのスウェーデンからの独立に、外交で大きな役割を果たした。初代の駐英公使。
**戦後の仕事**。
1920年、国際連盟が発足した。
彼は、まず**捕虜の送還**を任された。
シベリアと中央ヨーロッパに、帰れないまま留め置かれた捕虜が**50万人**いた。彼は、2年で**42万7000人**を、26か国へ送り返した。
1921年、**ロシアの飢饉**。ヴォルガ流域で、干魃と内戦により、数百万人が餓死しつつあった。
彼は、赤十字と組んで救援を組織した。各国政府は、ソヴィエト政権を援助することに消極的だった。彼は、国際連盟の総会で演説した。
「私は、あなた方に、**この飢えた人々の顔を見よ**と言いたい。……**時間がない**」。
(推定で、700万〜1000万人が死んだ。ナンセンの活動が救ったのは、数百万人とされる。)
1921年、**国際連盟の初代難民高等弁務官**。
**旅券**。
1922年7月、ジュネーヴ。
ナンセンの提案により、ロシア難民に対する身分証明書の発行についての取り決めが結ばれた。16か国が署名。
**ナンセン・パスポート**。
- 一枚の紙。写真と、氏名と、発行国の証明。 - **国籍を証明するものではない**。「この者は、当該国に居住する無国籍者である」ことを証明する。 - 保持者は、**発行国から出国し、他国へ入国し、そして発行国へ戻る権利**を持つ。 - 当初、1年間有効。更新される。
1924年、**アルメニア人**にも拡大された。1928年、アッシリア人、カルデア人、トルコからの難民。1935年、ザールラントからの難民。1938年、ドイツからの難民(ナチスによる)。
最終的に、**52か国**が承認した。
発行数は、**45万人以上**とされる。
**持った人々**。
- **イーゴリ・ストラヴィンスキー**(作曲家) - **セルゲイ・ラフマニノフ**(作曲家、ピアニスト) - **マルク・シャガール**(画家) - **ウラジーミル・ナボコフ**(作家。『記憶よ、語れ』に、この旅券の屈辱について書いている。「この惨めな書類。……**それを持つ者は、犯罪者に近いものとして扱われた**」) - **アンナ・パヴロワ**(バレリーナ) - **ミハイル・チェーホフ**(俳優) - **アルトゥーロ・トスカニーニ**(イタリアの指揮者。ファシズムを逃れて)
**限界**。
この旅券は、万能ではなかった。
- 査証は、別に取らねばならない。 - 受け入れは、各国の裁量。 - **労働許可は含まれない**(後に、一部の国が認めた)。 - 更新が拒否されることがある。 - 発行国に戻る権利が保障されない時期もあった(後に「**リターン・クローズ**」が加えられた)。
そして——**強制送還を防ぐ効力は、限定的だった**。
1930年代、ナチスがドイツを支配し、ユダヤ人が旅券を奪われて追い出されたとき、この制度は、規模にまったく追いつかなかった。
**1938年、エヴィアン会議**。32か国が集まり、ドイツからのユダヤ人難民の受け入れを協議した。
**どの国も、受け入れの拡大を約束しなかった**(ドミニカ共和国を除く)。
ナチスは、これを宣伝に使った。「誰も彼らを欲しがらない」。
**ナンセン**。
1922年、**ノーベル平和賞**。
賞金の全額を、ロシアとギリシアの救援事業に投じた。
彼は、ギリシアとトルコの間の**住民交換**(1923年、ローザンヌ条約)にも関与した。150万人のギリシア正教徒がトルコから、40万人のイスラーム教徒がギリシアから、強制的に移された。
(これは「人道的な解決」として当時は評価されたが、現代の目で見れば、民族的な均質化の強制であり、**民族浄化の先例**でもある。ナンセンの評価の中で、最も議論の分かれる部分である。)
**1930年5月13日**、心臓発作で死んだ。68歳。
自宅のベランダで、椅子に座ったまま。
**その後**。
- 1931年、彼の名を冠した**ナンセン国際難民事務所**が設立された。1938年、**ノーベル平和賞**を受賞した。同じ年に、業務を終えて閉鎖された。 - 1950年、**国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)**。 - 1951年、**難民条約**。難民の定義と、**ノン・ルフールマン原則**(迫害の恐れのある国へ送り返してはならない)を定めた。 - **難民旅券**(条約旅券)。ナンセン・パスポートの直接の後継である。いまも、条約加盟国が発行している。
**ナンセン難民賞**が、毎年、難民のために働いた個人と団体に贈られている。
**現在**。
国連の統計で、2023年末の時点で、故郷を追われた人は**1億1730万人**。
そして、**無国籍者**——どの国からも国民と認められていない人——は、推定で**440万人以上**。実際にはもっと多いとされる(数えられない人を、数えることはできない)。