できごと

ナンセン・パスポート

The Nansen passport
AD1922年
重要度 4
ナンセン・パスポートに関わる図版:No-nb bldsa 6e001
No-nb bldsa 6e001 Wikimedia Commons Creator:UNHCR · Public domain

概要

第一次大戦とロシア革命の後、国籍を失った人が数百万人いた。旅券がなければ国境を越えられず、働けず、しかしどこにも帰れない。国際連盟の難民高等弁務官フリチョフ・ナンセン(探検家である)が、無国籍者に発行する身分証を作らせた。52か国が受け入れ、45万人以上が使った。ストラヴィンスキー、シャガール、ラフマニノフ、ナボコフが持った。旅券という近代の装置が、逆に、旅券を持てない人を作り出したことへの、最初の応急処置だった。

場所

ジュネーヴ
46.20°N 6.14°E · スイス(CERN・国際機関)

関わった人(1)

フリチョフ・ナンセンAD1861年10月10日–AD1930年5月13日 · 作らせた

本文

第一次世界大戦の前、ヨーロッパの多くの国では、国境を越えるのに旅券は要らなかった。イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの間なら、切符を買って列車に乗れば、身分を証明する書類なしで行き来できた。厳しい旅券の制度を持っていたのは、ロシアやオスマン帝国など一部の国だけである。オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクは回想録『昨日の世界』で、1914年以前は許可も届けも無しに好きなところへ行けたのだと、いまの若い人に話しても信じてもらえないだろう、という意味のことを書いている。

第一次世界大戦が、その世界を終わらせた。各国はスパイや脱走兵や敵国の人間の出入りを見張るために、旅券と査証を求めるようになった。そして戦争が終わっても、その仕組みは元に戻らなかった。旅券は、国が人の動きを管理する、当たり前の道具になった。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

ところが戦後、その旅券を持てない人々が大量に生まれた。まずロシアから逃れた人々である。革命とロシア内戦で、貴族や将校、知識人、そして普通の市民まで、百万人を超える人々が国を出た。1921年12月、ソヴィエト政府は、長く国外にいる者や反革命の軍に加わった者などから国籍を奪う布告を出した。

国外にいたロシア人の多くが、一夜にして、どの国の国民でもない人になった。次にアルメニア人である。1915年からオスマン帝国で起きたアルメニア人虐殺を生き延びて国外に逃れた人々を、帝国の後に生まれたトルコ共和国は国民と認めなかった。さらに、ロシア、オスマン、ハプスブルクという三つの帝国が崩れ、国境が引き直されたことで、どこにも属さなくなった人々がいた。

Oslo Nansen
Wikimedia Commons Ivan Vasilev · CC0

国籍が無いということは、生活のほとんどすべてが閉ざされることを意味した。旅券が無ければ国境を越えられず、越えれば不法入国になる。働く許可が下りない。結婚や子の出生を役所に届けることも難しい。

追い出そうにも、送り返す先が無い。今いる国からは出ていけと言われ、しかしどこの国も受け入れない。のちに自らもナチス・ドイツに国籍を奪われ、長く無国籍で暮らした思想家ハンナ・アーレントは、無国籍の人々は「権利を持つ権利」を失っている、と書いた。人権は人であるだけでは守られず、どこかの国がその人を国民と認めて初めて守られる。国を失った人は、人権という枠組みそのものの外へ押し出されてしまうのである。

1929年にブルガリアで発行されたナンセン・パスポート
1929年にブルガリアで発行されたナンセン・パスポートWikimedia Commons Huddyhuddy · CC0

この人々のために動いたのが、ノルウェーのフリチョフ・ナンセンだった。ナンセンは何よりもまず探検家として知られていた。1888年、彼はスキーでグリーンランドの氷床を初めて横断した。無人の東海岸から出発して、人の住む西へ向かう道を選んだのは、引き返す道を自ら断つためだった。

1893年からは、船をわざと北極海の氷に閉じ込めて、氷とともに漂いながら極点に近づくという前代未聞の航海に出た(ナンセンのフラム号)。船が極点に届かないと分かると、彼は仲間一人と船を離れ、犬ぞりと徒歩でそれまでで最も北の地点に達し、氷原と島で一冬を越えて生還した。動物学者として神経の研究でも業績を残し、1905年にノルウェーがスウェーデンとの連合を解いて独立する際には外交で力を尽くし、初代の駐英公使を務めた。

フラム号とナンセン(左から2人目)
フリチョフ・ナンセンWikimedia Commons Appears in Fridtjof Nansen's 1893 book, so is PD in the US (published before 1923) and since Nansen died in 1930, it is · Public domain

1920年の国際連盟の発足の後、ナンセンはまず戦争捕虜を故郷へ帰す仕事を任された。シベリアや中央ヨーロッパには、戦争が終わっても帰れないまま取り残された捕虜が数十万人いた。彼は2年ほどで、42万人を超える捕虜を26か国へ送り届けた。1921年、ヴォルガ川の流域を大飢饉が襲った。干ばつと内戦の混乱が重なり、数百万人が飢えて死んだとされる。各国の政府はソヴィエト政権を助けることに及び腰だったが、ナンセンは赤十字と組んで救援を組織し、国際連盟の総会で、飢えている人々を見捨てるなと訴えた。

同じ1921年、ナンセンは国際連盟の初代の難民高等弁務官に任じられた。彼が取り組んだのが、国籍を失った人々に身分を証明する書類を与えることだった。1922年7月、ジュネーヴで、ロシア難民に身分証明書を発行するための取り決めが結ばれた。これが、のちに「ナンセン・パスポート」と呼ばれる書類である。

それは、写真と氏名を記した一枚の紙だった。国籍を証明するものではない。この人はこの国に住んでいる無国籍の者である、と発行した国が証明するだけである。それでも持ち主は、それを使って発行国を出て、別の国に入り、また戻ってくることができた。

期限は1年で、更新できた。1924年にはアルメニア人に広げられ、のちにアッシリア人やカルデア人、トルコからの難民、ザール地方の難民などにも対象が広がった。最終的に50を超える国がこの書類を認め、45万人以上が使ったとされる。

この紙を手に生きた人々の中には、20世紀の芸術を代表する名前が並ぶ。作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーやセルゲイ・ラフマニノフ、画家のマルク・シャガール、バレリーナのアンナ・パヴロワ。作家のウラジーミル・ナボコフは、自伝の中で、この書類がどれほど惨めなもので、それを持つ者がまるで犯罪者のように扱われたかを書いている。

実際、ナンセン・パスポートは万能ではなかった。他の国へ入るには別に査証が必要で、受け入れるかどうかは各国の裁量だった。働く許可は含まれず、更新を拒まれることもあり、出た国へ戻れる保証がはっきりしない時期もあった。追放から守る力も限られていた。1930年代、ナチスがドイツで政権を握り、ユダヤ人から国籍を奪って追い出し始めると、この仕組みはまったく追いつかなかった。1938年、フランスのエヴィアンに32か国が集まり、ドイツからのユダヤ人難民の受け入れを話し合ったが、受け入れを大きく広げると約束した国は、ドミニカ共和国のほかにほとんど無かった。

ナンセンは1922年にノーベル平和賞を受け、賞金をロシアとギリシアの救援に投じた。1923年のローザンヌ条約に伴うギリシアとトルコの住民交換にも関わった。トルコからは百万人を超えるギリシア正教徒が、ギリシアからは数十万人のイスラーム教徒が、宗教を基準に強制的に移された。当時は戦争を終わらせるための人道的な解決と評価されたが、いまの目から見れば、民族ごとに住む人を分けることを国際的に認めた先例でもある。ナンセンの仕事の中で、最も評価の分かれるところである。

ローザンヌ条約に関わる図版:Turkey-Greece-Bulgaria on Treaty of Lausanne
ローザンヌ条約Wikimedia Commons Public domain

1930年5月13日、ナンセンは自宅のベランダで、椅子に座ったまま心臓の発作で死んだ。68歳だった。翌年、彼の名を冠したナンセン国際難民事務所が作られ、1938年にノーベル平和賞を受けた。第二次世界大戦の後、その仕事は1950年に作られた国連の機関に受け継がれた(国連難民高等弁務官事務所と難民条約)。1951年の難民条約は、迫害を受けるおそれのある国へ難民を送り返してはならないという原則を定め、条約に加わった国が難民に発行する旅行証明書は、ナンセン・パスポートの直接の子孫にあたる。難民のために働いた人に贈られる賞には、いまも彼の名が付いている。

国連の統計では、2023年の末、紛争や迫害で住む場所を追われた人は1億1730万人にのぼる。どの国からも国民と認められていない無国籍の人は、把握されているだけで440万人を超え、実際にはもっと多いとされる。旅券という近代の仕組みが、旅券を持てない人を生み出す。その矛盾への最初の応急処置として作られた一枚の紙の問題は、百年たったいまも閉じていない。

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