人物

孫文

Sun Yat-sen
AD1866年11月12日 – AD1925年3月12日(享年58)
中華民国重要度 5

概要

2000年続いた皇帝の制度を終わらせた革命の中心。統一を見ないまま死んだ。台湾は国父と呼び、中華人民共和国は「革命の先駆者」と呼ぶ。

関わったできごと(2)

辛亥革命AD1911年10月10日 · 指導袁世凱の帝制AD1915年12月12日 · 大総統を渡した

本文

1866年11月12日、清の広東省香山県の翠亨村に、農家の子として生まれた。香山県は、のちに彼の号にちなんで中山県と名を改められる。村は貧しく、多くの若者が海外へ出稼ぎに出ていた。12歳年上の兄の孫眉もハワイへ渡り、農場と牧場で成功していた。

孫文の肖像
孫文の肖像Wikimedia Commons 上海波尔照相馆 · Public domain

広東の農家に生まれ、兄を頼ってハワイへ渡った。1878年、12歳のときである。ホノルルのキリスト教系の学校で英語と西洋の学問を学び、英文法で賞を受けている。弟がキリスト教に傾くのを恐れた兄は、数年で彼を故郷へ帰した。村に戻った孫文は、廟の神像の指を折って村人の怒りを買い、香港へ出ることになる。香港でキリスト教の洗礼を受けた。

そこで教育を受け、香港で医学を学んだ。1892年、香港の西洋医学校を最初の卒業生の一人として出て、マカオと広州で開業した。医師になったが、革命運動へ移る。後年、医者は一人の病を治し、革命は国の病を治す、と語ったとされる。

1894年、清の重臣の李鴻章に改革の意見書を送ったが、相手にされなかった。同じ年、日清戦争が始まる。11月、ホノルルで華僑の仲間と興中会を作り、清朝を倒すことを掲げた。翌年、広州で蜂起を計画したが、事前に漏れて失敗し、仲間が処刑された。孫文は清から懸賞金をかけられ、以後16年におよぶ亡命生活に入る。

日清戦争に関わる図版:旅顺海军公所
日清戦争Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

日本、アメリカ、ヨーロッパを回って資金と支持を集めた。ロンドンで清の公使館に監禁され、恩師が新聞に訴えて救出された事件がある。1896年10月、香港の医学校の恩師キャントリーの家の近くで、公使館の者に連れ込まれたのである。12日間閉じ込められ、本国へ送られれば処刑されるところだった。使用人に託した手紙で恩師が事情を知り、新聞と外務省に訴えて解放させた。それで国際的に名が知られた。孫文はこの体験を本にして英語で出版している。

日本には長く滞在した。宮崎滔天、犬養毅らが彼を助け、実業家の梅屋庄吉は生涯にわたって巨額の資金を援助したといわれる。日本で使った変名の「中山」から、中国では孫中山の名で呼ばれる。1905年、東京で、いくつもの革命団体をまとめた中国同盟会を作り、その総理になった。

孫文(17歳)
孫文(17歳)Wikimedia Commons Public domain

三民主義を掲げた。民族、民権、民生。民族は、満洲人の王朝を倒して漢人の国を作ること、のちには諸民族の平等へと意味を広げた。民権は、皇帝ではなく人民が主権を持つ共和政。民生は、土地の権利を平均し、人民の暮らしを豊かにすることだった。

同盟会は、華南を中心に何度も武装蜂起を起こしたが、すべて失敗した。1911年4月の広州での蜂起でも、多くの若い同志が死んでいる。

辛亥革命のとき、アメリカにいた。1911年10月10日、長江中流の武昌で、革命派が入り込んでいた新式の軍隊が蜂起した。孫文の計画したものではなかった。蜂起は各地に広がり、省が次々に清からの独立を宣言する(辛亥革命)。孫文はコロラド州デンバーで新聞でそれを知った。すぐには帰らず、ヨーロッパを回って列強に清への借款をやめるよう働きかけ、12月末に上海へ着いた。

辛亥革命に関わる図版:Opstanden, revolutie, SFA022823302
辛亥革命Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

新聞でそれを知って帰国し、臨時大総統になる。1912年1月1日、南京で中華民国の臨時大総統に就いた。アジアで最初の共和国である。

だが、実力は袁世凱にあった。清の側で最強の新式陸軍を握っていたのは袁世凱だった。清帝の退位と共和政の維持を条件に、その座を譲った。2月12日、6歳の宣統帝が退位し、2000年続いた皇帝の制度が終わる。3月、袁世凱が臨時大総統になった。

武昌蜂起の兵士たち
武昌蜂起の兵士たちWikimedia Commons Francis Stafford · Public domain

その後の道は険しかった。1913年、国民党を率いて選挙に勝った宋教仁が暗殺され、孫文らは袁世凱に対して兵を挙げたが敗れ、再び日本へ亡命した。1915年、東京で宋慶齢と結婚している。袁世凱はその年、自ら皇帝になろうとしたが(袁世凱の帝制)、各地の反発を受けて取り消し、翌年死んだ。中国は各地の軍閥が割拠する時代に入る。

孫文は広州を拠点に、何度も政府を作っては追われた。西欧の列強が支援しないなかで、最後に手を差し伸べたのはソ連だった。1924年、国民党と共産党が手を結び、ソ連の援助で軍官学校を作った。校長には蒋介石が就いた。この学校の将校たちが、のちに統一の戦いの中心になる。

孫文(右)と蔣介石
孫文(右)と蔣介石Wikimedia Commons Unknown photographer · Public domain

1924年11月、北京へ向かう途中、神戸で講演し、日本は西洋の覇道の手先となるのか、東洋の王道の守り手となるのか、と問いかけた。

統一を見ないまま死んだ。1925年3月12日、北京で肝臓の癌のため死去した。58歳。遺言には、革命はいまだ成功せず、同志はなお努力せよ、という一節がある。遺体はのちに南京の紫金山に築かれた中山陵に葬られた。

孫文の晩年の写真(1924年)
孫文の晩年の写真(1924年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

いまも、台湾の中華民国はこの人を国父と呼び、中華人民共和国は革命の先駆者として敬っている。対立する二つの政府が、どちらも自分の正統の源としてこの人を掲げている。生前は失敗を重ね、実力者に地位を譲り、亡命を繰り返した。それでも、皇帝のいない中国という考えを、最初に旗として掲げ続けた人だった。

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