できごと

1833年工場法

Factory Act 1833
AD1833年
重要度 4
1833年工場法に関わる図版:Baines 1835-Mule spinning
Baines 1835-Mule spinning Wikimedia Commons Baines · Public domain

概要

綿工場で、9歳未満の労働を禁じ、9〜13歳は1日9時間、13〜18歳は12時間まで、夜業を禁じ、9〜13歳に1日2時間の教育を義務づけた。それまでの法と違ったのは、給料を払う工場監督官を4人置いたこと。国家が、工場の中に人を入れて確かめる。児童労働は消えなかったが、「国が労働の条件を決める」という考えが、ここから広がった。同じ年、大英帝国の奴隷制が廃止された。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

18世紀の終わりから、イギリスの綿工場は水車と蒸気で動くようになった(産業革命)。機械は高価で、止めておけば損になる。夜通し動かすほうが儲かった。子供は手が小さく、機械の下にもぐり込んで切れた糸を継ぐことができ、しかも賃金が安い。水車の工場は川沿いの人里離れた谷にあり、人手が足りなかったので、ロンドンなどの教区の救貧院から、身寄りのない子供たちがまとめて「徒弟」として送られた。7歳、6歳、ときにはもっと幼い子もいた。

最初の手当ては、工場主自身から出た。1802年、自らも大きな工場を持つロバート・ピール(首相ピールの父)の働きかけで、徒弟の健康と道徳に関する法ができ、教区から来た徒弟の労働を1日12時間までにした。だが守らせる仕組みがなく、ほとんど効かなかった。1819年には、ニュー・ラナークの実験で知られるロバート・オーウェンらが押した法が通り、綿工場で9歳未満の雇用を禁じ、16歳未満の労働を12時間までとした。これも見回りを地元の治安判事に任せたため、工場主と顔見知りの判事が動くことはまれだった。

ニュー・ラナークの実験に関わる図版:New Lanark buildings 2009
ニュー・ラナークの実験Wikimedia Commons mrpbps · CC BY 2.0

1830年代に入ると、運動が一気に熱を帯びた。ヨークシャーの土地管理人でトーリーの国教徒、リチャード・オースラーは、1830年にリーズの新聞へ「ヨークシャーの奴隷制」と題した手紙を寄せた。イギリスの人々が西インドの黒人奴隷のために涙を流しているまさにその時、この州の工場では幼い子供たちが朝から晩まで鞭の下で働かされている、と彼は書いた。奴隷制廃止の運動が国中で盛り上がっていた時期だけに、この比較は強く響いた。各地の工場町で労働者たちが「短時間労働委員会」を作り、議会ではマイケル・サドラーが子供の労働を1日10時間に抑える法案を出した。

1832年、サドラーを委員長とする特別委員会は、工場で働いた人々を議会に呼んで証言させた。何歳から働いたか、何時から何時まで働いたか、食事の時間はあったか、眠くなったらどうなったか。ある証人は、忙しい時期には朝の3時から夜の10時まで働いたと答えた。食事は機械を止めずに取り、居眠りをすれば監督に叩かれたという証言が続き、膝が内側に曲がった脚を見せる者もいた。証言集は印刷されて広く読まれた。ただし、サドラーの側が選んだ証人ばかりで誇張もあると工場主側は反発し、総選挙でサドラーが議席を失ったこともあって、政府はあらためて王立委員会に調査させた。

1834年ごろ、マンチェスターの綿工場での梳綿・粗紡・延伸作業
1834年ごろ、マンチェスターの綿工場での梳綿・粗紡・延伸作業Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

この王立委員会には、のちに公衆衛生改革で名を残すエドウィン・チャドウィックが加わっていた。委員会は工場主の言い分も聞きつつ、子供が自分の意思で働く契約を結べる立場にない以上、国が守るのは当然だと結論した。その勧告をもとに、1833年8月、工場法が成立した。提出した大蔵大臣の名から、アルソープ法とも呼ばれる。

中身はこうである。繊維工場(絹の工場を除く)で、9歳未満の子供の雇用を禁じる。9歳から13歳は1日9時間、週48時間まで。13歳から18歳は1日12時間、週69時間まで。18歳未満の夜業、つまり夜8時半から朝5時半までの労働を禁じる。そして13歳未満の子供には、1日2時間の学校教育を受けさせることを工場主に義務づけた。年齢は医師の証明で確かめる。

これまでの法と決定的に違ったのは、守らせる人を置いたことだった。国が給料を払う工場監督官を4人任命し、彼らにはいつでも工場に立ち入り、帳簿を調べ、違反者を告発する権限が与えられた。私的な財産である工場の中へ、国家が自分の目を送り込む。自由放任が支配的な考え方だった時代に、これは大きな一歩だった。初代の監督官の一人レナード・ホーナーは、20年以上にわたって詳細な報告書を書き続け、その報告書はのちにフリードリヒ・エンゲルスやマルクスが工場の実態を描く際の材料にもなった。

もっとも、効き目は限られていた。年齢の証明はいい加減で、金を払えば医師が書いてくれることもあった。子供を交代させて機械を止めない「リレー制」を使えば、一人あたりの時間を守っているように見せかけられた。わずか4人の監督官で、国中の数千の工場を見回るのは無理だった。そして規制のかからない場所、つまり小さな作業場や炭鉱、農業、煙突掃除へと、子供たちは流れていった。学校の義務も、工場の片隅で読み書きのできない者が教えるだけ、という例が少なくなかった。

それでも、「国が労働の条件を決め、それを確かめる」という原理は、ここで立った。1842年の鉱山法は、女性と10歳未満の男子の坑内労働を禁じた。きっかけになったのは、児童労働委員会の報告書に載った挿絵で、腰に鎖を巻いて四つん這いで石炭の車を引く少女の姿が議会と世論を動かした。1844年の法は女性も保護の対象に加え、危険な機械に囲いを付けさせた。1847年には10時間法が通り、オースラーたちの長年の目標がかなった。その後、規制は1867年に繊維以外の工場と作業場へ広がり、1878年に一つの法にまとめられた。1880年には初等教育が義務となり、子供の居場所は工場から学校へ移っていく。

同じ1833年の8月、議会はイギリスの奴隷制廃止法も成立させている。1834年8月1日から、大英帝国の植民地でおよそ80万人の奴隷が解放された。ただし数年の「徒弟期間」が付き、すぐに自由になったわけではない。奴隷の所有者には補償金として2000万ポンドが払われた。これは当時の政府の年間支出の4割ほどにあたり、そのために借りた金の返済は2015年まで続いた。解放された人々の側への補償は、なかった。

海の向こうの奴隷と、国内の工場の子供。同じ年に二つの法が通ったことは、「自由な労働」とは何かという問いが、この時代のイギリスで両方の方向から問われていたことを示している。児童労働はその後も世界の各地で続き、20世紀のアメリカでもハインの写真と児童労働の写真が世論を動かすことになる。1833年の工場法は、それを国の仕事として扱う長い道のりの、最初の実効ある一歩だった。

同じ時代のできごと

オースティン『高慢と偏見』AD1813年1月28日シャンプーという語AD1814年ウィーン会議1814年ペミカン布告AD1814年1月8日安全灯AD1815年ワーテルローの戦いAD1815年6月18日ワーテルローの歯AD1815年イギリスの金本位制AD1816年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1833年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →