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Event / できごと

1833年工場法

Factory Act 1833
AD1833年
重要度 4

概要

綿工場で、9歳未満の労働を禁じ、9〜13歳は1日9時間、13〜18歳は12時間まで、夜業を禁じ、9〜13歳に1日2時間の教育を義務づけた。それまでの法と違ったのは、給料を払う工場監督官を4人置いたこと。国家が、工場の中に人を入れて確かめる。児童労働は消えなかったが、「国が労働の条件を決める」という考えが、ここから広がった。同じ年、大英帝国の奴隷制が廃止された。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

18世紀の終わりから、綿工場が水車と蒸気で動いた。夜通し動かすほうが儲かる。子供は小さくて、機械の下に入れて糸を継げる。安い。教区の救貧院から、「徒弟」として、工場へ送られた。7歳、6歳、5歳。

1802年、徒弟の健康と道徳に関する法(ピール法)。教区徒弟の労働を12時間までにした。監督する仕組みがなく、効かなかった。1819年、オーウェンらが押した法(9歳未満禁止、16歳未満は12時間まで、綿工場のみ)。治安判事に任せられ、効かなかった。

1830年代、運動が高まった。リチャード・オースラー(ヨークシャーの地主、トーリー)が新聞に「ヨークシャーの奴隷制」を書いた。「イギリスの人々が西インドの黒人奴隷のために涙を流しているまさにそのとき、この州の谷では、幼い子供たちが、朝の6時から夜の7時まで、鞭の下で働いている」。ジョン・ドハティらの短時間労働委員会。マイケル・サドラー議員の10時間法案。

1832年、サドラー委員会。工場労働者を議会に呼んで、証言させた。「何歳から働きましたか」「6歳です」「何時から何時まで」「朝の3時から夜の10時まで、忙しい時期には」「食事は」「15分です。それも機械を止めずに」「眠くなったらどうしますか」「叩かれます」「体はどうなりましたか」(膝が内側に曲がった脚を見せる)。証言集は印刷されて、広く読まれた。

1833年、王立委員会(工場主側の意向も入っていた)が改めて調査し、勧告した。その勧告に基づく法。

1833年工場法(アルソープ法)。繊維工場(絹を除く)で。9歳未満の雇用を禁止。9〜13歳は1日9時間、週48時間まで。13〜18歳は1日12時間、週69時間まで。18歳未満の夜業(夜8時半〜朝5時半)を禁止。9〜13歳には、1日2時間の教育を義務づけ、通学証明を工場主が確かめる。年齢を証明する医師の証明書。

そして、決定的だったこと。給料を国が払う工場監督官を4人置いた(後に増えた)。彼らは、いつでも工場に入り、帳簿を見て、違反を告発できる。国家が、私的な工場の中に、人を入れる。

効果は限られた。年齢の証明はいい加減で(医師が金で書いた)、「リレー制」(子供を入れ替えて機械を止めない)で規則を抜け、監督官4人でイギリス中の工場を見ることはできなかった。子供は、法の及ばない小さな作業場と、炭鉱と、農業と、煙突掃除に流れた。

しかし、原理が立った。1842年、鉱山法(女性と10歳未満の子供の坑内労働の禁止。1842年の児童労働委員会の報告書に載った、鎖を腰に巻いて四つん這いで炭車を引く女と子供の挿絵が、議会を動かした)。1844年(女性を「保護される者」に含めた。機械の囲い)。1847年、10時間法。1867年、繊維以外の全ての工場と作業場へ。1878年、統合。1880年、義務教育。

同じ1833年8月28日、奴隷制廃止法。1834年8月1日から、大英帝国の80万人の奴隷が解放された(4年から6年の「徒弟期間」つき)。奴隷所有者への補償金は2000万ポンド。国家予算の4割。イギリス政府は、この借金を2015年まで返し続けた。解放された人々への補償は、なかった。

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