人物

トゥサン・ルヴェルチュール

Toussaint Louverture
AD1743年頃 – AD1803年4月7日(享年60・推定)
ハイチ重要度 5

概要

サン・ドマングの奴隷に生まれ、御者で、字を読み、解放されて、自分も奴隷を持った。1791年の蜂起に加わり、軍を作り、スペイン、イギリス、フランスと戦い、1801年、島を統一して憲法を作った。「黒いスパルタクス」。ナポレオンが3万を送った。捕らえられて、ジュラ山脈の要塞で凍えて死んだ。「私を倒しても、自由の木の根は深く、また生える」。翌年、ハイチが独立した。

関わったできごと(1)

ハイチ革命1791年 · 率いた

本文

1743年ごろ、カリブ海のフランス領サン・ドマング(いまのハイチ)の北部、ブレダ農園で奴隷として生まれた。父は西アフリカのアラダ王国から連れて来られた奴隷で、王族の血を引いていたと伝えられる。当時のサン・ドマングは、砂糖とコーヒーで世界一の富を生む植民地だった。その富を支えていたのは50万人近い黒人奴隷で、毎年何万人もがアフリカから運ばれ、過酷な労働と病で次々に死んでいった。

ジラルダン画、トゥサン・ルヴェルチュールの肖像
ジラルダン画、トゥサン・ルヴェルチュールの肖像Wikimedia Commons Alexandre-François-Louis, comte de Girardin · Public domain

トゥサンは体が弱く、幼いころは「細い棒」とあだ名されたが、やがて馬の扱いに長け、農園主の御者や家畜の世話役となった。読み書きを身につけ、名付け親の司祭からキリスト教の教えを、農園の管理人から本を与えられたとされる。のちに、奴隷の中から黒いスパルタクスが現れて主人たちに復讐するだろうと予言した、フランスの啓蒙思想家レナルの書物を読んで心を動かされた、という話も伝わる。1776年ごろには自由の身になっていたことが記録で分かっている。自分でコーヒー農園を借りて営み、そこでは彼自身も奴隷を使っていた。

1789年にフランス革命が始まると、その「人間の権利」の理念は植民地を揺さぶった。1791年8月22日の夜、北部の平野で奴隷たちが一斉に蜂起し、農園を焼き、主人たちを殺した(ハイチ革命)。40代後半のトゥサンは、すぐには加わらなかった。かつての主人の家族を安全な場所へ逃がしてから、反乱軍に身を投じたと伝えられる。薬草の知識を買われて医者として仕え、やがて兵を訓練して、規律ある部隊を作り上げた。

フランス革命に関わる図版:Anonymous - Prise de la Bastille
フランス革命Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

1793年、フランスと戦争を始めたスペインは、島の東半分の植民地から反乱軍を支援し、トゥサンもスペイン軍の将校として戦った。このころから彼は「ルヴェルチュール(開く者)」と名乗り始めた。敵の陣に必ず突破口を開くからとも、前歯が欠けていたからとも言われる。1794年2月、パリの革命政府が植民地の奴隷制の廃止を決めると、トゥサンはスペインを見限ってフランス側に移った。奴隷の解放を約束したのはフランスだけだったからである。

ここから彼の快進撃が始まった。1793年からイギリスも島に攻め込んでいたが、熱帯の病に苦しむイギリス軍を相手に戦い抜き、1798年に撤退させた。本国から送られてきたフランスの役人たちを巧みに追い出し、南部を押さえていた混血の有力者リゴーとの内戦にも勝った。1801年1月にはスペイン領だった島の東部に兵を進め、イスパニョーラ島の全体を支配下に置いた。

トゥーサン・ルーヴェルチュール
トゥーサン・ルーヴェルチュールWikimedia Commons unknown, Image publisher: Chez Jean rue Jean de Beauvais, No. 10, Paris · Public domain

1801年7月、彼は植民地のための憲法を公布した。奴隷はこの地に存在しえない、隷属は永遠に廃止される、と定め、肌の色にかかわらずすべての人が職に就けるとした。一方で、トゥサン自身を終身の総督とし、後継者を指名する権限まで与えていた。形の上ではフランスの植民地にとどまりながら、事実上の独立国である。彼はナポレオンに、黒人の第一人者から白人の第一人者へ、と書き出した手紙を送ったという。

彼の統治には、暗い面もあった。輸出の柱である砂糖とコーヒーの生産を立て直すため、解放された元奴隷たちを農園に縛りつけ、兵士の監視のもとで働かせた。白人の農園主たちも呼び戻した。これでは新しい奴隷制だと不満が高まり、1801年、甥にあたる将軍モイーズが反乱を起こすと、トゥサンは彼を処刑した。自由を守るために経済を立て直さねばならず、そのために自由を制限する、という矛盾の中に彼はいた。

革命前、レナル神父の『両インド史』を読むルヴェルチュールを描いた、史実性の疑わしい版画(1853年)
革命前、レナル神父の『両インド史』を読むルヴェルチュールを描いた、史実性の疑わしい版画(1853年)Wikimedia Commons Beard, J. R. (John Relly) (1800-1876) · Public domain

フランスでは、権力を握ったナポレオン・ボナパルトが、カリブの植民地に奴隷制を戻そうと考えていた。1801年末、彼は義弟のルクレール将軍に大軍を預けてサン・ドマングへ送り出した。上陸したフランス軍に対し、トゥサンの軍は町を焼いて山に退き、激しい戦いを続けたが、配下の将軍たちが次々にフランス側に寝返り、1802年5月、トゥサンは降伏して自分の農園に引退した。しかし6月7日、フランスの将軍から話し合いに招かれて出向いたところを捕らえられ、家族とともに船でフランスへ送られた。船に乗せられるとき、私を倒しても、サン・ドマングの黒人の自由の木の幹を切り倒したにすぎない、根は深く、数多いのだから、また芽を出すだろう、と言ったと伝えられる。

彼はフランス東部、スイスとの国境に近いジュラ山脈のジュー要塞の、石造りの独房に閉じ込められた。熱帯で生きてきた体に、山の冬は厳しかった。ナポレオンに手紙を書いて裁判を求めたが、返事はなかった。食料も薪も減らされ、1803年4月7日、独房の中で死んでいるのが見つかった。60歳前後だった。

軍を視察するルヴェルチュール
軍を視察するルヴェルチュールWikimedia Commons by John Kay 1805 · Public domain

彼の予言どおり、根は再び芽を出した。グアドループで奴隷制が復活したと知った島の人々は再び立ち上がった。フランス軍は戦いと黄熱病で崩れ、ルクレール自身も1802年11月に病死した。1803年11月、トゥサンの部下だったデサリーヌが北部のヴェルティエールでフランス軍を破り、1804年1月1日、ハイチの独立が宣言された。奴隷の反乱から生まれた、世界で最初の黒人の共和国である。カリブの拠点を失ったナポレオンは、アメリカ大陸での帝国の夢を捨て、広大なルイジアナをアメリカ合衆国に売り渡した(ルイジアナ買収)。

イギリスの詩人ワーズワースは、獄中のトゥサンにソネットを捧げ、あなたには味方する力がある、大気も大地も空も、と詠んだ。1938年、トリニダード出身の歴史家C・L・R・ジェームズは、この革命を描いた『ブラック・ジャコバン』を著し、トゥサンを世界史の中に位置づけた。人間の権利という言葉は、それを唱えたヨーロッパの人々の思っていた以上に普遍的なものだということを、行動で示したのが彼だった。

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