人物

ウ・タント

U Thant
AD1909年1月22日 – AD1974年11月25日(享年65)
ビルマ重要度 3

概要

アジア初の国連事務総長。キューバ危機の仲介に入り、両国の顔を立てる形を用意した。

関わったできごと(1)

キューバ危機AD1962年 · 仲介に入った

本文

ウ・タントは1909年1月22日、イギリス領ビルマ(いまのミャンマー)の南部、エーヤワディー川のデルタの町パンタノーに生まれた。「ウ」は年長の男性につける敬称で、名はタント一語である。父は米の商いを営み、英語の書物をそろえた家だった。ラングーンの大学で学んだが、父が死に、家を支えるため2年で学業を切り上げて故郷に戻った。

大学在学中のウ・タント(1927年)
大学在学中のウ・タント(1927年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

故郷の国民学校で教師となり、やがて校長になった。同じ学校には、のちにビルマの初代首相となるウー・ヌがいて、二人は生涯の友となった。タントは教えるかたわら、新聞や雑誌に記事を書き、本を訳した。穏やかで、敬虔な上座部仏教の信者だった。

1948年、ビルマはイギリスから独立した(ビルマの独立)。独立の英雄アウンサンはその前年に暗殺され、首相となったウー・ヌは友を政府に呼んだ。タントは報道や放送の責任者を経て、首相の秘書官となり、アジア・アフリカの国々が集まった1955年のバンドン会議にも同行した。1957年、国連のビルマ代表として、ニューヨークに赴任した。

1961年9月、国連事務総長ハマーショルドが、内戦の続くアフリカのコンゴ(コンゴ動乱)の調停に向かう途中、飛行機の墜落で死んだ。冷戦のさなかで、ソ連は事務総長を一人ではなく東西と中立の三人の合議にせよと主張し、後任選びは難航した。妥協として選ばれたのが、どちらの陣営にも属さない国の代表だったウ・タントである。まず代理として就任し、翌年正式な事務総長になった。アジアから選ばれた初めての事務総長だった。

コンゴ動乱に関わる図版:UN Baluba camp
コンゴ動乱Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

就任1年後の1962年10月、キューバ危機が起きた。ソ連がキューバに核ミサイルを運び込もうとし、アメリカは海上を封鎖した。ミサイルを積んだとみられるソ連の船団が、封鎖の線に近づいていた。米ソとも、自分から引けば負けを認めることになる。10月24日、ウ・タントはジョン・F・ケネディとニキータ・フルシチョフに同じ文面の書簡を送り、ソ連は船の輸送を、アメリカは封鎖を、ともに2、3週間止めて話し合うよう求めた。さらに翌日、ソ連には船を封鎖の線から遠ざけるよう、アメリカには船との衝突を避けるよう、重ねて訴えた。フルシチョフはこれに応じると返事をし、船団は向きを変えた。国連事務総長の求めに応じたという形は、引き返す側の顔を立てた。顔を潰さずに降りる階段を用意した、と評される。危機の最後の取引は米ソの直接の交渉で決まったが、ウ・タントはその間にキューバへ飛び、カストロとミサイル撤去の確認について話し合っている。

その後もウ・タントは、調停に走り回った。コンゴでは、国連軍を使って南部カタンガ州の分離を終わらせた。1964年には地中海のキプロスに平和維持軍を送り、1965年にはインドとパキスタンの戦争の停戦を取りまとめた。一方で、1967年にエジプトのガマール・アブドゥル=ナセルから求められて、シナイ半島の国連緊急軍を引き揚げたことは、その直後の第三次中東戦争を招いたとして、厳しく批判された。

ベトナム戦争には、早くから終結を訴えた。1964年には米国と北ベトナムの秘密の話し合いを仲立ちしようとしたが、アメリカに退けられた。戦争の拡大を公然と批判し続けたため、ジョンソン政権との関係は冷え込んだ。1966年、ウ・タントは再任を断ろうとしたが、各国に強く求められて2期目を引き受け、1971年末まで10年間務めた。事務総長の役割を、大国の調整役から、世界の良心として発言する立場へと押し広げた人物と評価されている。

ベトナム戦争に関わる図版:U.S. Army UH-1H Hueys insert ARVN troops at Khâm Đức, Vietnam, 12 July 1970 (79431435)
ベトナム戦争Wikimedia Commons U.S. Air Force (Operation Holly 1970 (Folder 13 of 15), sheet 182) · Public domain

退任後もニューヨークにとどまり、1974年11月25日、肺がんのために65歳で死んだ。遺体は故郷に送られた。だがビルマは、1962年のクーデターで権力を握ったネ・ウィンの軍政下にあった。ウー・ヌを倒した軍政は、ウー・ヌの友を冷遇し、国葬を行わなかった。12月5日、葬儀の日に学生たちが棺を奪い、ラングーン大学の構内、かつて軍が爆破した学生会館の跡地に仮の墓を作って埋葬した。数日後、軍が構内に突入して棺を掘り出し、抵抗した学生に死者が出た。町は暴動となり、戒厳令が敷かれた。棺はシュエダゴン・パゴダのふもとに改めて葬られた。世界の平和のために働いた人の遺体を、自国の軍政が奪い返すという、痛ましい結末だった。

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