血の日曜日事件
概要
司祭ガポンが率いる労働者と家族が、皇帝の肖像とイコンを掲げ、賛美歌を歌いながら、冬宮へ請願に行った。8時間労働、憲法制定議会、日本との戦争の終結。皇帝はいなかった。軍が撃った。公式には130人、実際は1000人以上。「皇帝が我々を守る」という信仰が、その日に消えた。1905年の革命、10月詔書、ドゥーマ。12年後の本番の予行。
場所
59.93°N 30.36°E · ロシア
関わった人(2)
ゲオルギー・ガポンAD1870年2月17日–AD1906年4月10日 · 率いたニコライ2世AD1868年5月18日–AD1918年7月17日 · いなかった本文
20世紀の初めのロシアの都ペテルブルクには、農村から出てきた工場労働者があふれていた。一日11時間を超える労働、安い賃金、不衛生な宿舎。労働組合も政党も禁じられ、ストライキは犯罪だった。1904年2月に始まった日露戦争は、負けの知らせばかりが届き、物価は上がり続けた。12月の末には極東の要塞旅順が落ちる。都の空気は張りつめていた。
その頃、労働者の間で人望を集めていたのが、正教の司祭ゲオルギー・ゲオルギー・ガポンである。ウクライナの農民の家に生まれ、監獄や貧民街で説教していたガポンは、1904年、警察の許しを得て「ペテルブルク市ロシア工場労働者の集い」という団体を作った。労働者を政府の管理の下に組織し、革命家から引き離そうという、内務省の一部が進めていた考えに沿うものだった。だが、会員が数千人に増えるにつれ、団体は警察の思惑を離れ、ガポン自身も労働者の要求に引きずられていった。

12月、大工場のプチロフ工場で、団体の会員だった労働者4人が解雇された。撤回を求める交渉は実らず、1905年1月の初め、ストライキが始まる。ストライキは都じゅうの工場に広がり、数日のうちに10万人を超える労働者が仕事を止めた。ガポンと仲間たちは、皇帝に直接訴える請願書を作った。陛下、私たちペテルブルクの労働者は、妻と子と老いた親とともに、真実と庇護を求めて陛下のもとに参りました、と書き出し、私たちは貧しくされ、虐げられ、人として扱われていない、忍耐は尽き、耐えがたい苦しみが続くより死のほうがましなときが来た、と続ける。求めたのは、8時間労働と最低賃金、そして普通・平等・秘密の選挙による憲法制定議会、言論と信仰の自由、法の前の平等、政治犯の釈放、戦争の終結だった。集会で読み上げられ、多くの人が署名した。
1月9日(ロシアの旧暦。いまの暦で1月22日)は日曜日だった。朝、労働者とその家族は、都の各地区から冬宮を目指して歩き出した。先頭には十字架とイコン、皇帝と皇后の肖像が掲げられ、人々は賛美歌と、神よ皇帝を守りたまえ、の歌を歌った。武器を持たないように、とガポンは繰り返し言っていた。行進に加わった人の数は、数万とも10万を超えたともいわれる。

皇帝ニコライ2世は、都にいなかった。郊外のツァールスコエ・セローの離宮にとどまり、請願を受け取るつもりも無かった。政府は前夜までに、都に兵を集め、橋や大通り、冬宮前の広場に配置していた。
撃ったのは、市の外れのナルヴァ門が最初だった。ガポンの率いる列の前に兵が立ちふさがり、警告ののちに一斉射撃が行われた。ガポンは倒れた人々の下に伏せて助かり、仲間に髪を切られ、服を替えて逃れた。ほかの場所でも、騎兵が群衆に突っ込み、歩兵が銃を撃った。冬宮の前の公園では、行進を見ようと木に登っていた子どもまで撃ち落とされたと伝えられる。政府の発表では死者は96人(のちに130人とされる)、負傷者は300人余り。実際の死者は数百人から1000人以上まで、推計に大きな幅がある。

その夜、身を隠したガポンは檄文を書いた。もう私たちに皇帝はいない。罪の無い血が皇帝と民の間に流された、と。皇帝はその日の日記に、つらい一日だった、労働者が冬宮へ行こうとしたため重大な騒ぎが起き、軍は市内の各所で撃たねばならず、多くの死傷者が出た、主よ、なんとつらく悲しいことか、と書いている。
この日まで、ロシアの労働者や農民の多くは、皇帝は民の父であり、悪いのはその間にいる役人や地主だと信じていた。血の日曜日は、その信仰を打ち砕いた。抗議のストライキは数日のうちにロシア全土の都市へ広がり、地方では農民が地主の館を襲った。1905年の革命の始まりである。6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで水兵が反乱を起こし、5月の日本海海戦の惨敗とあわせて、政府は日本との講和を急ぐことになる(ポーツマス条約)。秋には全国の鉄道と工場が止まるゼネストが起き、ペテルブルクでは労働者の代表が集まって評議会、ソヴィエトを作った。のちにトロツキーもその指導者の一人となる。

追い詰められた皇帝は、10月17日の詔書で、言論や集会の自由を認め、立法の権限を持つ議会ドゥーマを開くことを約束した。ロシアに初めて議会が生まれたのである。だが政府は12月のモスクワの武装蜂起を砲火で鎮め、やがてピョートル・ストルイピンのもとで締め付けと改革を同時に進めていく(ストルイピンの改革)。皇帝は議会を何度も解散し、専制を手放そうとはしなかった。
ガポンは国外に逃れ、ヨーロッパで一時は英雄として迎えられた。だが、翌1906年にひそかに帰国すると、再び警察と通じていたことを革命派に知られ、4月、ペテルブルク近郊の別荘で、かつての同志に絞め殺された。

1905年の革命は、皇帝の体制を倒すには至らなかった。だが、民衆と皇帝の間の信頼は二度と戻らなかった。12年後の1917年、戦争の重荷の中で、ペテルブルクの労働者と兵士は再び街頭に出る(ロシア革命)。そのとき、ソヴィエトという名の評議会も、皇帝への幻想を持たない民衆も、すでにそこにいた。