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Event / できごと

血の日曜日事件

Bloody Sunday
AD1905年1月22日
重要度 5

概要

司祭ガポンが率いる労働者と家族が、皇帝の肖像とイコンを掲げ、賛美歌を歌いながら、冬宮へ請願に行った。8時間労働、憲法制定議会、日本との戦争の終結。皇帝はいなかった。軍が撃った。公式には130人、実際は1000人以上。「皇帝が我々を守る」という信仰が、その日に消えた。1905年の革命、10月詔書、ドゥーマ。12年後の本番の予行。

場所

サンクトペテルブルク
59.93°N 30.36°E · ロシア

関わった人(2)

ゲオルギー・ガポンAD1870年2月17日–AD1906年4月10日 · 率いたニコライ2世AD1868年5月18日–AD1918年7月17日 · いなかった

本文

1904年、日露戦争。負け続けた。物価が上がった。12月、ペテルブルクのプチロフ工場で、労働者4人が解雇された(「ロシア工場労働者会」の会員だという理由で)。ストライキ。1月8日までに、市の15万人が止まった。

ゲオルギー・ガポン。正教の司祭で、監獄と貧民街で働き、警察の後援で労働者の組織を作っていた(内務省のズバートフの「警察社会主義」。労働運動を政府の管理下に置いて、革命家から引き離す)。ガポンは、その組織を、自分のものにしていった。

請願書。1月6〜8日に書かれ、集会で読まれ、13万人が署名した。「陛下!私たち、ペテルブルクの労働者は、妻と子と、老いた無力な両親と共に、真実と保護を求めて、陛下のもとに参りました。私たちは乞食になり、抑圧され、耐えがたい労働を負わされ、侮辱され、人間として認められず、……私たちの忍耐は尽きました。私たちにとって、死のほうが、耐えがたい苦しみの続きよりましな、あの恐ろしい瞬間が来ました」。要求。8時間労働、最低賃金、普通・平等・秘密の選挙による憲法制定議会、言論と信教の自由、法の前の平等、政治犯の釈放、戦争の終結。

1月9日(グレゴリオ暦22日)、日曜日。市の6か所から、労働者と家族が、冬宮を目指した。イコン、十字架、皇帝と皇后の肖像を掲げて、賛美歌と「神よ、皇帝を守りたまえ」を歌いながら。武器を持たないよう、ガポンが繰り返し言った。10万人以上。

皇帝は前日からツァールスコエ・セローにいた(危険を避けて)。政府は軍を配置した。ナルヴァ門、トロイツキー橋、ネヴァ大通り、冬宮広場。

警告の号令、それから発砲。ナルヴァ門で、ガポンの隊列の先頭が撃たれた。ガポンは倒れた人の下に伏せて、髪を切られて逃げた。冬宮広場では、群衆に騎兵が突っ込み、歩兵が撃った。アレクサンドロフスキー公園の木に登っていた子供が撃たれた。

公式の発表、死者96人、負傷333人。実際は、死者1000人前後、負傷数千(諸説)。

その夜、ガポンは檄を書いた。「もう我々には皇帝はいない。無辜の血が、彼と、彼の民の間に横たわった。労働者よ、自由のために戦え」。

1週間で、ロシア中でストライキ。1905年革命。戦艦ポチョムキン(6月)、モスクワの武装蜂起(12月)、ソヴィエト(労働者代表評議会)が最初に作られた(ペテルブルク、10月。議長トロツキー)。10月17日、皇帝の詔書。市民的自由と、国会(ドゥーマ)。

「血の日曜日」の前、ロシアの労働者と農民の多くは、「皇帝は良い人で、悪いのは役人と地主だ」と信じていた。「皇帝への信仰は、9日に死んだ」(トロツキー)。皇帝は日記に書いた。「困難な日。ペテルブルクで、労働者が冬宮へ行こうとして、重大な混乱が起きた。軍は市の各所で発砲しなければならなかった。多くの死傷者。神よ、なんと苦しく、悲しいことか」。夕食に何を食べたかも、同じ頁に書いてある。

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