ルイ16世
概要
錠前作りと狩りを好んだ内気な王。財政の破綻で三部会を召集し、そこから始まった革命に呑まれ、逃亡に失敗して処刑された。
所属
フランス王国関わったできごと(2)
フランス革命1789年 · 王ルイ16世の処刑AD1793年1月21日 · 処刑された本文
1754年8月23日、ヴェルサイユ宮殿に生まれた。祖父は国王ルイ15世、父はその王太子である。三男で、もとは王になる立場ではなかったが、兄たちが幼くして死に、1765年に父も亡くなったため、11歳で王太子になった。体が大きく、内気で、人前で話すのが苦手な少年だった。

1770年、15歳で、オーストリアのマリア・テレジアの末娘で14歳のマリー・アントワネットと結婚した。ハプスブルク家との同盟を固めるための結婚である。二人の間に子が生まれるまで7年あまりかかり、宮廷ではそのことが噂の種になった。
1774年5月、祖父が天然痘で死に、19歳で王になった。知らせを受けた夫妻は「私たちは若すぎて国を治められない」と言って泣いたと伝えられる。好きなものは狩り、錠前作り、そして地理だった。読書家で英語も読み、地図や航海の記録に熱心だった。1785年に探検家ラ・ペルーズを太平洋へ送り出したときは、自ら航路の指示に手を入れている。

善意の王ではあった。即位するとすぐ、改革派の財務総監テュルゴーを起用し、穀物の取引の自由化や、農民に課されていた道路の賦役の廃止を進めた。だが既得権を持つ貴族や高等法院の反発を受けると、1776年にテュルゴーを退けた。決断が遅く、周りの意見で揺れた、と評されるのはこうした場面である。のちには拷問の一部を廃止し、プロテスタントにも戸籍を認める勅令を出している。
1778年からは、イギリスに対抗するため、アメリカの独立戦争(アメリカ独立宣言)を支援して参戦した。戦争には勝ったが、膨大な戦費が借金として残った。借金の利払いだけで国の支出の半分近くを占めるようになり、財政は行き詰まった。

国を救うには、それまで税を免れてきた貴族と聖職者にも課税するしかなかった。王は有力者の会議を開き、高等法院とも争ったが、どちらにも阻まれた。最後の手段として、聖職者、貴族、平民の代表からなる全国三部会を召集した。1789年5月に開かれたこの会議は、1614年以来、175年ぶりだった。
ここから革命が始まった(フランス革命)。第三身分の代表は自分たちこそ国民の代表だと宣言して国民議会を名乗り、7月14日にはパリの民衆がバスティーユ牢獄を襲った。その日、王の日記には「なし」とだけ書かれていた。狩りの獲物の記録をつけた日記で、獲物が無かったという意味だったとされるが、後世、時代の変化に気づかない王の象徴として語られた。

王位はまだ残っていた。10月には、パンを求めるパリの女性たちがヴェルサイユへ押し寄せ、国王一家はパリのテュイルリー宮殿へ移された。王は議会の改革を表向き受け入れながら、内心では受け入れられずにいた。1791年6月20日の夜、一家は変装して東の国境を目指して逃げ出した。翌日、国境の手前のヴァレンヌで正体を見破られ、捕らえられた。宿駅の長が、紙幣に刷られた王の肖像と顔を見比べて気づいたと伝えられる。
この逃亡で、国民の王への信頼は消えた。1792年4月にオーストリアとの戦争が始まると、王が敵と通じているという疑いが強まった。8月10日、民衆と義勇兵がテュイルリー宮殿を襲い、王権は停止された。9月には王政が廃止され、共和政が宣言された。王は「ルイ・カペー」という一市民として扱われるようになった。

12月、国民公会で裁判が始まった。宮殿の隠し戸棚から、外国との通信の文書が見つかったことが決め手の一つになった。王は、自分は当時の法に従って統治したと主張した。有罪はほぼ全員一致だった。刑については、条件を付けない即時の死刑に賛成した者が721票のうち361票で、過半数をちょうど1票上回った。この採決にはマクシミリアン・ロベスピエールらが強く死刑を求めた。
1793年1月21日、パリの革命広場で断頭台にかけられた(ルイ16世の処刑)。38歳だった。最期に「私は罪なくして死ぬ。私の敵を許す」と民衆に語りかけたが、その声は太鼓の音にかき消されたという。処刑の前、ラ・ペルーズ隊の消息を尋ねたという話も伝わる。妻もその年の10月に処刑された。

暴君ではなかった。改革の必要も分かっていた。だが、古い仕組みに守られた人々と、新しい国を求める人々の間で、どちらの側にも立ち切れなかった。その揺れが、王政そのものを終わらせることになった。