できごと

ラテンアメリカ諸国の独立

Spanish American wars of independence
1810年 – 1825年
期間を持つできごと重要度 5
大英帝国スペイン帝国ポルトガル帝国アメリカ合衆国ブラジル副王領ヌエバ・エスパーニャ副王領ルイジアナヌエバ・グラナダ副王領アメリカ合衆国ペルー副王領スペインイギリスイギリス領ギアナ1810年カラカス
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1810年の版図を描いています(13勢力)。

概要

本国がナポレオンに占領された隙に各地が独立した。統一の夢は果たされず、多くの国に分かれる。

場所

カラカス
10.48°N -66.90°E · ベネズエラ

関わった人(3)

ホセ・デ・サン・マルティンAD1778年2月25日–AD1850年8月17日 · 南からトゥパク・アマル2世AD1738年3月19日–AD1781年5月18日 · その50年前の先駆シモン・ボリバルAD1783年7月24日–AD1830年12月17日 · 指導

本文

1808年、スペインの王が消えた。ナポレオン・ボナパルトは国王カルロス4世と王子フェルナンドをフランス南西部のバイヨンヌに呼び寄せ、二人に王位を手放させて、自分の兄ジョゼフをスペイン王に据えた。本国ではフランスへの抵抗戦争が始まり、各地の評議会が「捕らわれた正統な王フェルナンド7世」の名で統治を名乗った。

海の向こうの植民地は、誰に従えばよいのか分からなくなった。フランスが立てた王に従う理由はない。本国の抵抗派の評議会も、追い詰められて南端のカディスに閉じこもっている。そこで植民地の都市でも、有力者たちが自分たちの評議会(フンタ)を作り、「王のために自治を守る」と宣言した。1810年、4月にカラカス、5月にブエノスアイレス、7月にボゴタ、9月にはサンティアゴで、相次いでこの動きが起きた。最初は独立の宣言ではなく、王への忠誠の形をとっていた。

この動きを担ったのは、多くがクリオーリョである。アメリカ大陸で生まれたスペイン系の白人で、土地や鉱山や商売で富を持っていた。だが、副王や高位の官職、聖職の上の位は、本国生まれのスペイン人(ペニンスラール)に押さえられていた。18世紀後半のブルボン朝の改革で、本国は植民地への統制と課税を強めており、クリオーリョの不満は積もっていた。1776年のアメリカ独立宣言や、フランス革命の理念も、彼らの読書を通じて知られていた。

アメリカ独立宣言に関わる図版:United States Declaration of Independence
アメリカ独立宣言Wikimedia Commons original: w:Second Continental Congress ; reproduction: William Stone · Public domain

一方で、クリオーリョは下からの反乱を恐れてもいた。1780年、ペルーで先住民の首長トゥパク・アマル2世が大反乱を起こし、アンデス一帯を揺るがした。鎮圧に数年かかり、双方で多くの死者が出た。1791年からはハイチ革命で、奴隷が白人の支配を覆した。独立を求めるにせよ、社会の上下をひっくり返すことは望まない。この二つの気持ちのあいだで、運動は揺れ続けた。

メキシコでは、その恐れが現実になりかけた。1810年9月、村の司祭イダルゴが鐘を鳴らして人々を集め、先住民や混血の農民を率いて蜂起した。数万の群衆はグアナフアトなどの都市で略奪と殺戮を起こし、クリオーリョの多くは王党派の側についた。イダルゴは翌年捕らえられて処刑された。メキシコが独立を果たすのは1821年で、そのときは保守的な軍人イトゥルビデが、教会と身分秩序を守る約束のもとで独立を宣言し、自ら皇帝になった(メキシコの独立)。

メキシコの独立に関わる図版:Collage Independencia
メキシコの独立Wikimedia Commons Hpav7 · Public domain

南米の北では、シモン・ボリバルが戦った。カラカスの富裕な家に生まれ、若くして両親と妻を失い、ヨーロッパで啓蒙思想に触れた人物である。ベネズエラの最初の共和国は1812年に崩れ、2度目も1814年に王党派に敗れた。王党派の側には、平原の牧畜民(リャネロ)の騎兵がついていた。ボリバルはジャマイカ、続いてハイチへ逃れ、ハイチの大統領ペシオンから援助を受けて戻った。援助の条件は奴隷の解放だった。

形勢が変わったのは、ボリバルが平原の騎兵を味方につけてからである。1819年、彼は雨季のアンデス山脈を越えてヌエバ・グラナダ(今のコロンビア)に入り、ボヤカの戦いで王党派を破った。この年、ベネズエラとヌエバ・グラナダを合わせた共和国、いわゆる大コロンビアが宣言される。1821年にはカラボボの戦いでベネズエラを解放し、翌年には副官スクレがピチンチャの戦いでキト(今のエクアドル)を落とした。

1814年、カラカスからの追放。
1814年、カラカスからの追放。Wikimedia Commons Casa de Bolívar, Óleo de propiedad Nacional. · Public domain

南からはホセ・デ・サン・マルティンが進んだ。ラ・プラタ(今のアルゼンチン)は早くから事実上の自治を保っていたが、ペルーの王党派がいる限り安心できなかった。サン・マルティンは軍を鍛え、1817年、4千から5千の兵でアンデスを越えてチリに入った。チャカブコとマイプーの戦いでチリを解放し、次に海路でペルーへ向かって、1821年にリマで独立を宣言した。

1822年7月、二人の解放者はエクアドルの港町グアヤキルで会った。話し合いは二人きりで行われ、記録が残っていない。何が話されたのかは今も推測するしかない。確かなのは、そのあとサン・マルティンが軍の指揮を退き、やがてヨーロッパへ去ったことである。彼はフランスで晩年を過ごし、祖国に戻らなかった。

ペルーに残った王党派の最後の大軍は、1824年12月、アンデスの高地アヤクーチョでスクレの軍に敗れた。翌年、上ペルーが独立し、ボリバルの名をとってボリビアと名乗った。こうして、カリブ海のキューバとプエルトリコを除いて、スペインの大陸の植民地はほぼすべて独立した。1820年に本国で軍の反乱が起き、新大陸へ援軍を送れなくなったことも、最後の局面を早めた。ポルトガル領のブラジルは、王室がナポレオンを逃れてリオデジャネイロに移っていた事情から、1822年に王子が皇帝となる形で別の道をたどった(ブラジルの独立)。1823年、アメリカはモンロー宣言で、ヨーロッパが新しい国々に再び手を出すことに反対を表明した。

ブラジルの独立に関わる図版:Pedro Américo - Independência ou Morte - Google Art Project
ブラジルの独立Wikimedia Commons Pedro Américo · Public domain

ボリバルは、解放した土地を一つの大きな共和国にまとめる夢を持っていた。1826年にはパナマで、新しい国々の会議を開いている。だが、集まった国は少なかった。山脈と密林で隔てられた土地は、互いの往来が乏しかった。地域ごとに産物も利害も違った。そして、戦争で力を得た各地の将軍たちは、自分の勢力を手放そうとしなかった。

1830年、大コロンビアは分裂し、ベネズエラ、ヌエバ・グラナダ、エクアドルの三つに分かれた。中米の連邦も、やがて五つの国に割れる。結核に冒されたボリバルは、この年の12月、カリブ海沿岸のサンタ・マルタの近くで死んだ。47歳だった。死の数週間前の手紙に「アメリカに仕えた者は、海を耕したようなものだ」と書いている。

1814年のランカグアの戦い(英語版)
1814年のランカグアの戦い(英語版)Wikimedia Commons Giulio Nanetti · Public domain

独立は、社会の構造をあまり変えなかった。支配者が本国の官僚からクリオーリョに入れ替わっただけで、先住民や混血の人々、そして奴隷の地位はそのまま残った地域が多い。奴隷制の廃止は、多くの国で1850年代までずれ込んだ。武力を持つ地方の実力者(カウディーリョ)が政権を奪い合う時代が続き、独立戦争の英雄たちの多くも、その争いのなかで追われるか殺された。

19世紀の後半には、イギリスやのちにはアメリカの資本が鉄道や鉱山に入り、新しい国々は一次産品の輸出国として世界経済に組み込まれていった。その構造を告発したのが、のちの『収奪された大地』の刊行である。政治の独立と経済の独立は、同じものではなかった。ボリバルの像はいまも南米の多くの都市の広場に立ち、その名は国名にも通貨の名にも残っている。だが、彼が望んだ一つの大きな国は、ついに生まれなかった。

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