人物

ベニート・フアレス

Benito Juárez
AD1806年3月21日 – AD1872年7月18日(享年66)
メキシコ重要度 4

概要

先住民の出身で大統領になった。フランスが立てた皇帝を退け、教会の特権を削る改革を進める。

関わったできごと(1)

フアレスの改革とメキシコ帝国の崩壊1858年 · 当人

本文

1806年3月21日、メキシコ南部オアハカの山あいの村、サン・パブロ・グェラタオに生まれた。サポテカ族の農家だった。3歳で両親を、まもなく祖父母も亡くし、叔父のもとで羊の番をして育った。スペイン語はほとんど話せず、読み書きもできなかった。

ベニート・フアレスの肖像
ベニート・フアレスの肖像Wikimedia Commons Public domain

12歳のとき、一人で村を出て、オアハカの町まで歩いた。料理人として働いていた姉を頼ったのである。そこで信心深い製本職人に拾われ、仕事を手伝いながら学校へ通わせてもらった。その人の勧めで神学校に入ったが、聖職者にはならず、新しくできた学院で法律を学び、1834年に弁護士になった。貧しい村人の訴訟を引き受けて、教会や役人と争った。

このころのメキシコは、スペインから独立して(メキシコの独立)まだ間もなく、政権が目まぐるしく入れ替わっていた。教会と軍人は、それぞれ自分たちだけの裁判所を持ち、普通の法律で裁かれなかった。教会は国の土地のかなりの部分を持っていた。フアレスは、こうした特権を削る自由主義の側に立った。1847年からオアハカの州知事を務め、学校を開き、財政を立て直した。

メキシコの独立に関わる図版:Collage Independencia
メキシコの独立Wikimedia Commons Hpav7 · Public domain

1853年、独裁者サンタ・アナが政権に返り咲くと、フアレスは捕らえられて国外へ追放された。アメリカのニューオーリンズで、葉巻を巻く仕事をして食いつないだ。同じ境遇の亡命者たちと、帰国後の改革を語り合ったという。

1855年、サンタ・アナが倒れると、司法大臣として戻った。軍人と聖職者の特別な裁判所を制限する法律を出し、これは「フアレス法」と呼ばれた。1857年には、言論の自由や法の下の平等を定めた新しい憲法ができた。

保守派と教会はこれに強く反発し、1858年、3年にわたる内戦が始まる(フアレスの改革とメキシコ帝国の崩壊)。大統領が保守派の側に寝返ったため、最高裁の長官だったフアレスが憲法の定めにより大統領となった。首都を追われ、港町ベラクルスに政府を置いて戦った。1859年には、教会の財産を国のものにし、出生と結婚と死の登録を教会から国へ移し、墓地を国の管理にする法律を次々に出した。1861年、首都を取り戻した。

フアレスの改革とメキシコ帝国の崩壊に関わる図版:Alegoría de la Constitución de 1857
フアレスの改革とメキシコ帝国の崩壊Wikimedia Commons Petronilo Monroy · Public domain

戦争で国庫は空だった。フアレスが外国からの借金の返済を2年止めると、イギリス、スペイン、フランスが軍を送ってきた。前の2国はまもなく引き上げたが、ナポレオン3世のフランスは本気だった。1862年5月5日、プエブラでメキシコ軍がフランス軍を退けた。この日はいまも祝われている。それでも翌年、フランス軍は首都を落とし、1864年、オーストリア皇帝の弟マクシミリアンをメキシコ皇帝として迎えた。

フアレスは降伏しなかった。馬車で北へ北へと移り、アメリカとの国境の町パソ・デル・ノルテにまで政府を移して、正統な政府であり続けた。この町はいま、彼の名をとってシウダー・フアレスと呼ばれる。

ベニート・フアレスの写真
ベニート・フアレスの写真Wikimedia Commons Unknown photographer · Public domain

南北戦争を終えたアメリカが、フランスに撤退を求めて圧力をかけた。ヨーロッパでプロイセンの台頭に備えたいナポレオン3世は、1866年から翌年にかけて軍を引き上げた。取り残されたマクシミリアンはケレタロで捕らえられ、1867年6月19日、銃殺された。文豪ヴィクトル・ユゴーやイタリアのガリバルディをはじめ、各地から助命の嘆願が届いたが、フアレスは応じなかった。外国の軍で国を奪おうとすればどうなるかを、示す必要があったとされる。

首都に戻ったフアレスは、「個人のあいだでも国のあいだでも、他者の権利を尊重することが平和である」と述べた。この言葉は、メキシコでいまも広く知られている。

フアレス(右から2人目)と姉マリア・ホセファ、妻マルガリータ・マサ、結婚式の日(1843年)
フアレス(右から2人目)と姉マリア・ホセファ、妻マルガリータ・マサ、結婚式の日(1843年)Wikimedia Commons Unknown photographer · Public domain

その後も大統領に選ばれ続けたが、権力に長くとどまることには批判も強まった。1872年7月18日、心臓の発作で、在任のまま首都の国立宮殿で亡くなった。66歳だった。

先住民の出身でありながら国の頂点に立ち、外国の支配をはね返した人として、メキシコでもっとも敬われる政治家の一人である。ただし、自由主義の改革は教会だけでなく、先住民の村が共同で持っていた土地も「個人の所有」に分けさせた。その土地の多くは大地主の手に渡り、のちのメキシコ革命の火種の一つになる。

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