できごと

トルコ共和国の成立

Founding of the Republic of Turkey
AD1923年10月29日
重要度 5
大英帝国ソビエト連邦デンマークイギリス領インド帝国フランス領西アフリカアルジェリアスーダンフランス領赤道アフリカポルトガル帝国新疆イランLibya (IT)Emirate of Bin Shal'anエチオピア帝国エジプトスウェーデンノルウェーフランスアフガニスタンフィンランドドイツイタリアウクライナMesopotamia (GB)スペインポーランドグレートブリテン及びアイルランド連合王国モロッコHejazルーマニアSyria (France)YugoslaviaMuscat and OmanイエメンWhite RussiaアルメニアCzechoslovakiaギリシャチュニジアアゼルバイジャンブルガリアハンガリーエリトリアHailオーストリアリトアニアラトビアTrucial OmanSpanish SaharaジョージアエストニアAD1923年10月29日アンカラ
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概要

解体された帝国の跡に共和国が立った。文字をラテン字に替え、暦も法も服装も入れ替える。

場所

アンカラ
39.93°N 32.86°E · トルコ

関わった人(1)

ケマル・アタテュルクAD1881年頃–AD1938年11月10日 · 当人

本文

1923年10月29日、アナトリアの内陸の町アンカラで、大国民議会がトルコを共和国とすることを宣言し、ケマル・アタテュルク(当時の名はムスタファ・ケマル)を初代大統領に選んだ。6世紀以上続いたオスマン帝国が第一次世界大戦に敗れ、列強に切り分けられようとしていたその跡地に、新しい国が立った。そしてこの国は、その後の15年で、文字も暦も法も服装も入れ替えるという、世界でも例の少ない上からの作り替えを経験する。

オスマン帝国は、1299年頃に小アジアの一角に興り(オスマン帝国の始まり)、1453年にコンスタンティノープルを落として(コンスタンティノープル陥落)、最盛期には東ヨーロッパから北アフリカ、アラビア半島までを治めた。だが19世紀には「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほど衰え、領土を次々に失った。改革を求める軍人や官僚は、1908年に青年トルコ革命を起こして憲法を復活させたが、帝国の解体は止まらなかった。

コンスタンティノープル陥落に関わる図版:Siege of Constantinople fresco, Moldovița monastery, Vatra Moldoviței, 2017
コンスタンティノープル陥落Wikimedia Commons DimiTalen · CC0

1914年、帝国はドイツの側に立って第一次世界大戦に加わった。1915年のガリポリの戦いでは英仏の上陸軍を退け、このとき師団長として名を上げたのが、ギリシアのテッサロニキ生まれの軍人ムスタファ・ケマルだった。同じ年、帝国の東部ではアルメニア人の強制移送と大量の殺害が行われた(アルメニア人虐殺)。この出来事をどう呼ぶかは、いまもトルコと国際社会のあいだの大きな争点になっている。

1918年、帝国は敗れて休戦した。連合国の軍は首都イスタンブルを占領し、1919年5月にはギリシア軍がエーゲ海沿岸のイズミルに上陸した。1920年にスルタンの政府が署名させられたセーヴル条約は、帝国にアナトリアの一部しか残さない内容だった。東部にはアルメニア人の国とクルド人の自治区を置き、イズミル周辺はギリシアが治め、海峡は国際管理とし、残る地域にもイギリスやフランス、イタリアの勢力圏が設けられた。

『革命の道で』(ゼキ・ファイク・イゼル画、1933年)。トルコの女性を自由の先駆者として象徴する
『革命の道で』(ゼキ・ファイク・イゼル画、1933年)。トルコの女性を自由の先駆者として象徴するWikimedia Commons Zeki Faik İzer · Public domain

ムスタファ・ケマルは、ギリシア軍の上陸の4日後、黒海の港町サムスンに上陸し、アナトリアで抵抗運動を組織し始めた。各地の会議で、トルコ人が多数を占める土地は分割を認めないという方針を固め、1920年4月、アンカラに大国民議会を開いた。イスタンブルのスルタン政府とは別の、もう一つの政府である。セーヴル条約は、このアンカラの政府によって拒まれた。

東ではアルメニアと戦って国境を定め、革命後のソ連とは条約を結んで武器と資金の援助を得た。フランスやイタリアとも個別に話をつけ、西のギリシア軍との戦いに力を集めた。ギリシア軍は内陸深くまで進み、アンカラに迫ったが、1921年の夏、サカリヤ川のほとりで3週間に及ぶ戦いの末に退けられた。翌1922年8月、トルコ軍は総攻撃に移り、2週間ほどでギリシア軍をエーゲ海まで押し戻して、9月にはイズミルを取り戻した。町はその直後に大火に包まれ、多くのギリシア人とアルメニア人の住民が犠牲になり、あるいは海へ逃れた。

1922年11月、大国民議会はスルタン制の廃止を決め、最後のスルタンはイギリスの軍艦で国外へ去った。1923年7月に結ばれたローザンヌ条約で、連合国はアナトリアと東トラキアをトルコの領土と認め、セーヴル条約は葬られた。同じ年、トルコとギリシアは住民の交換に合意した。トルコに住むギリシア正教徒およそ120万人と、ギリシアに住むムスリムおよそ40万人が、言葉ではなく宗教を基準に、生まれ育った土地から相手の国へ移された。そして10月、共和国が宣言され、首都はイスタンブルではなくアンカラと定められた。

ローザンヌ条約に関わる図版:Turkey-Greece-Bulgaria on Treaty of Lausanne
ローザンヌ条約Wikimedia Commons Public domain

そこからの改革は、急で徹底していた。1924年3月、議会はカリフ制を廃止した。預言者ムハンマドの後継者として、イスラーム世界の最高権威を名乗る位である。オスマン家のスルタンは長くカリフを兼ねてきた。7世紀に始まったこの位が、1300年近くを経て、ここで消えた。宗教裁判所も閉じられ、宗教の学校は国の管理に移された。

1925年には帽子に関する法律が作られ、オスマン時代の男たちがかぶっていた円筒形の赤い帽子フェズが禁じられて、つばのある西洋式の帽子に替えられた。神秘主義の教団の修道場も閉鎖された。同じ年、東部ではクルド人の宗教指導者が率いる大きな反乱が起き、厳しく鎮圧された。

西洋式の服装をしたムスタファ・ケマル・アタテュルク
西洋式の服装をしたムスタファ・ケマル・アタテュルクWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1926年には、イスラーム法に基づく家族や相続の決まりをやめ、スイスの民法をほぼそのまま取り入れた。一夫多妻は禁じられ、結婚は民事の届け出によるものになり、女性にも離婚や相続の権利が認められた。刑法はイタリアの、商法はドイツの法を手本にした。暦はグレゴリオ暦に改められた。

1928年には、トルコ語の表記をアラビア文字からラテン文字に替えた。アラビア文字は母音の多いトルコ語には合わず、読み書きを覚えるのが難しかった。ケマル自身が黒板を前に各地を回り、新しい文字を人々に教えた姿は、改革の象徴として写真に残っている。新しい文字は数か月で公の場に義務づけられ、全国に国民学校が開かれた。これによって、若い世代はオスマン時代の書物を読めなくなった。過去と切り離すことも、改革の狙いの一つだった。同じ年、憲法からはイスラームを国の宗教とする条文が削られた。

1927年のトルコ地図。文字改革以前に発行
1927年のトルコ地図。文字改革以前に発行Wikimedia Commons Alaaddin Matbaası · Public domain

1934年には姓を名乗ることが法律で義務づけられ、議会はケマルに「アタテュルク(トルコ人の父)」という姓を贈った。同じ年、女性は国政選挙で投票し、議員に立つ権利を得た。フランスやイタリアより10年ほど早い。翌年には週の休日が、イスラームの集団礼拝の日である金曜日から、日曜日に移された。1937年には、宗教と国家を切り離す世俗主義が憲法に書き込まれた。

アタテュルクは1938年11月10日、イスタンブルのドルマバフチェ宮殿で死んだ。57歳だった。いまも毎年その日の午前9時5分、トルコ中でサイレンが鳴り、人々は足を止めて黙祷する。

『ケマル主義のトルコ』誌の表紙(1933-1949年)。ヨーロッパ向けの対外宣伝誌
『ケマル主義のトルコ』誌の表紙(1933-1949年)。ヨーロッパ向けの対外宣伝誌Wikimedia Commons La Turquie Kemaliste · Public domain

改革は、議会の中で一つの政党が権力を握り、反対を抑えながら進められた。都市の官僚や軍人、教育を受けた層はそれを支えたが、地方の信仰の篤い人々にとっては、暮らしの土台を上から取り替えられる経験でもあった。第二次世界大戦の後に複数の政党による選挙が始まると、宗教への寛容を掲げる政党が農村の票を集めて政権を取った。以後、世俗主義の守り手を自任する軍は、何度もクーデターで政治に介入した。21世紀に入ると、宗教色を持つ政党が長く政権を握り、2020年にはイスタンブルのハギア・ソフィアの完成が博物館からモスクに戻された。

信仰と国家の関係をどう結ぶか。百年前に一人の軍人と議会が一気に答えを出そうとしたその問いは、いまもトルコの政治を二つに分ける軸であり続けている。

動画(1)

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