大航海時代

概要
海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。
この物語について
なぜヨーロッパの小さな船が世界に出て、先に巨大な船団を持っていた中国は出なかったのか。
15世紀のはじめ、インド洋でいちばん大きな船を持っていたのは明だった。1405年から1433年まで、宦官の鄭和は七回にわたって船団を率い、東南アジア、インド、アラビア半島を経てアフリカ東岸まで達した。鄭和の南海遠征の船団は、多いときで60隻を超える大船と2万数千の人員だったと記録される。コロンブスの最初の航海より、90年近く早い。だが永楽帝が死ぬと、明は遠征をやめた。費用がかかりすぎ、朝廷の中では宦官の手柄を嫌う官僚が力を持ち、北のモンゴルへの備えが先だった。明は民間の海外渡航も禁じ、海から手を引いた。

同じころ、ユーラシアの西の端の小国ポルトガルが海へ出始めていた。1415年、ポルトガルは北アフリカの港町を攻め落とす。セウタ攻略に加わった王子エンリケは、その後、アフリカの西岸を南へ探る航海を次々に送り出した。エンリケ航海王子と呼ばれるが、本人が探検の船に乗ったことはない。目当ては、サハラの向こうから運ばれてくる金と、イスラーム勢力の背後にいるはずのキリスト教徒の王だった。1434年、船乗りたちが恐れていたボハドル岬を越えると、航海は年ごとに南へ延びた。
よく語られるのは、1453年のコンスタンティノープル陥落でオスマン帝国が東の道を塞ぎ、香辛料が手に入らなくなったので海へ出た、という筋書きである。実際には、ポルトガルの航海はそれより40年近く前に始まっていたし、香辛料はその後もエジプトやシリアを経てヴェネツィアに届いていた。問題は、途中で何度も仲介と関税を経るぶん値段が跳ね上がることだった。産地から直接、海で運べれば、その差額がすべて手に入る。

1488年、バルトロメウ・ディアスはアフリカの南端を回った。嵐に押し流されて、気づいたときには岬を越えていたという。だがその4年後、思いがけない知らせがスペインから届く。1492年、カスティーリャの女王イサベル1世の支援を受けたコロンブスが、大西洋を西へ渡って陸地に着いたのである。コロンブスは地球の大きさを実際より小さく見積もり、アジアはすぐ近くだと信じていた。着いたのはカリブ海の島だったが、彼は最後までそこをインドの一部だと考えていた。
二つの国の争いを避けるため、1494年、スペインとポルトガルはトルデシリャス条約で、大西洋の上に南北の線を引き、西をスペイン、東をポルトガルのものとした。そこに住む人びとには、もちろん何も聞いていない。1500年、インドへ向かう途中で西へ大きく流されたカブラルの船団がブラジルに着き、そこが線の東側だったために、ブラジルはポルトガル語の国になった。

1498年、ヴァスコ・ダ・ガマはアフリカの南端を回ってインド西岸のカリカットに着いた。アフリカ東岸からはアラブの水先案内人の助けを借りたとされる。持参した贈り物は粗末で、現地の王には相手にされなかったが、持ち帰った胡椒は航海の費用を何倍も上回る利益を生んだ。ポルトガルはこのあと、大砲を積んだ船でインド洋の港を押さえていく。1511年にはアルブケルケが東西交易の要衝マラッカを攻め落とした。ポルトガルが作ったのは、領土ではなく、港と要塞を点でつないだ網だった。
西へ向かったスペインは、点ではなく面を取った。1519年、エルナン・コルテスは数百の兵を率いてメキシコに上陸し、アステカに支配されていた諸都市を味方に引き入れて、首都テノチティトランへ向かった。王モクテスマ2世は捕らえられ、スペイン人はいったん都から追い出される。だが翌年、天然痘が都を襲った。1521年、包囲の末に都は陥ちた。テノチティトランの陥落で人を最も多く殺したのは、剣よりも、免疫の無い病だったとされる。

1532年、フランシスコ・ピサロはわずか168人でアンデスのカハマルカに入り、インカの皇帝アタワルパを捕らえた。インカは、天然痘の流行で前の皇帝が死に、跡目をめぐる内戦を終えたばかりだった。アタワルパは部屋を金で満たすほどの身代金を集めさせたが、翌年処刑された。南北アメリカの先住民の人口が征服後にどれだけ減ったかは推計の幅が大きいが、多くの地域で一世紀のうちに大半が失われたとみられている。
この間、1519年にスペインを出たマゼランの船団は、南米の南端の海峡を抜けて太平洋を横断し、フィリピンに着いた。マゼランはそこで現地の首長との戦いで死ぬ。生き残った船はエルカーノに率いられてインド洋を回り、1522年にスペインへ帰った。出発時の5隻、二百数十人のうち、帰り着いたのは1隻、18人だった。地球が丸く、ひと回りできることが、初めて実際に確かめられた。

征服の後に来たのは、銀だった。1545年、いまのボリビアの高地で銀の山が見つかった。ポトシ銀山の開発では、先住民を交代で働かせる強制労働と水銀を使う精錬で、膨大な銀が掘り出された。銀はスペインへ運ばれ、戦争の費用としてヨーロッパ中に流れ出た。一方、1571年にスペインがマニラを拠点にすると、メキシコのアカプルコとマニラを結ぶガレオン船が太平洋を往復し、アメリカの銀が直接アジアへ渡った。行き先の多くは、税を銀で納めるようになっていた明だった。海から手を引いた国が、海を渡ってきた銀を最後に飲み込んだのである。
日本もこの流れの中にいた。1543年にポルトガル人が種子島に着き、1549年にはイエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して、キリスト教が伝わる。石見銀山の銀は、ポルトガル船によって中国の生糸と交換された。鉄砲もキリスト教も、この網に乗って来た。

征服を内側から告発した者もいた。ドミニコ会の司祭ラス・カサスは、自ら入植者として先住民を使った後に考えを改め、1552年に『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を出して、スペイン人の残虐を王に訴えた。この書物は後にスペインの敵国で盛んに訳され、スペインを悪者に描く「黒い伝説」の元にもなった。
16世紀の末になると、遅れて来たイングランドとオランダが割り込む。ドレークはスペインの銀を積んだ船を襲いながら世界を一周し、1602年にはオランダがオランダ東インド会社の設立で、国家に代わって戦争も条約も結べる会社を作った。点の網と面の領土に続いて、株式で資金を集める会社が海を支配する時代が来る。

冒頭の問いに戻ろう。船の大きさでいえば、明の宝船はヨーロッパのどの船よりも大きかった。違いは、出る理由と、やめさせる者の有無にあった。広大な国土と税を持つ明にとって、海の向こうに取りに行かねばならないものは少なく、皇帝ひとりの判断で遠征は止まった。ヨーロッパは小さな国が競い合っていて、ポルトガルに断られたコロンブスはスペインに話を持ち込めたし、ある国がやめても隣の国が続けた。三角の帆で風上にも進める小型の帆船や、羅針盤と天体の高さで位置を測る技術は、その競争の中で磨かれた。海に出ることが、富と生き残りに直結していたのである。
大航海時代の結果を一言でいうなら、世界がひとつの市場になったことだ。トウモロコシとジャガイモはユーラシアへ渡って人口を支え、馬と小麦はアメリカへ渡った。アフリカからは、砂糖の畑で働かせるために、その後の三世紀あまりで一千万を超える人びとが奴隷として運ばれていく。私たちが「発見」と呼んできた出来事は、それぞれの土地から見れば、まったく違う名で呼ばれるべきものだった。いまの食卓に並ぶものの多くと、世界の言語の分布の多くは、この150年ほどのあいだに決まっている。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(62)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- マルコ・ポーロ人物AD1254年 – AD1324年2世紀前の旅行記が、船を出させる動機になった東方への旅を語り、ヨーロッパにアジアの富を印象づけた。コロンブスはこの本を携えて出航する。
- エンリケ航海王子人物AD1394年3月4日 – AD1460年11月13日一度も探検に出なかった航海王子ポルトガル王の三男。セウタで戦い、以後45年、アフリカの海岸へ船を送り続けた。自分は一度も探検に出ず、サグレスに住み、船と地図と航海士に金を出した。奴隷貿易もここから始まる。「航海王子」の名は19世紀のイギリス人がつけた。
- 鄭和の南海遠征できごと1405年コロンブスより90年早く、規模も上。だが明は航海をやめた七度の航海で数百隻の船団がアフリカ東岸まで達した。植民も征服もせず、朝貢の関係を結んで帰る。だが事業は打ち切られ、記録の多くも失われた。海は他者に委ねられる。南京
- セウタ攻略できごとAD1415年8月21日大航海時代の最初の日ポルトガルがジブラルタルの向かいのイスラームの港を一日で取った。ヨーロッパがアフリカに足場を持った最初。21歳のエンリケ王子が戦い、以後アフリカの海岸を南へ船を送り続ける。大航海時代の最初の日、と数えることが多い。セウタ
- ポルトガル帝国国AD1415年(セウタ攻略) – AD1999年(マカオの返還)点の連なりとして地球を一周する網を作ったアフリカ西岸を少しずつ南下し、喜望峰を回り、インド洋の交易路に割り込んだ。人口100万の小国が、点の連なりとして地球を一周する網を作った。
- マデイラの植民できごとAD1420年砂糖と奴隷の型無人の島を、ヘンリー航海王子の船が見つけ、森を7年焼いて、砂糖を植えた。奴隷が切った。1450年代にヨーロッパ最大の砂糖の産地。カナリアへ、サントメへ、ブラジルへ、カリブへ。「砂糖と奴隷」の型は、この島で作られた。コロンブスは島の娘と結婚した。マデイラ
- ボハドル岬の突破できごとAD1434年恐れは地図の上に「そこから先は海が沸き、船は帰れない」。ヘンリー航海王子が15回送って、15回引き返した。ジル・エアネスが沖に出て回った。何もなかった。それから毎年、南へ。恐れは地図の上にあった。アフリカの海岸は、それから50年で喜望峰まで開いた。ボハドル岬
- バルトロメウ・ディアス人物AD1450年頃 – AD1500年5月29日嵐の岬嵐に流されてアフリカの南端を回り、「嵐の岬」と名づけた。王が「喜望峰」に変えた。インドへは行かせてもらえず、カブラルの船団の一隻を任され、その喜望峰の沖で嵐に沈んだ。
- ジョン・カボット人物AD1450年頃 – AD1498年頃消えたジェノヴァに生まれ、ヴェネツィアの市民になり、借金で逃げて、スペインで断られ、ブリストルへ。マシュー号。1497年、北米。ヘンリー7世が10ポンド。翌年、5隻。消えた。息子セバスチャンは父の功績を自分のものとして語った。
- コロンブス人物AD1451年頃 – AD1506年アジアを目指して西へ渡り、別の大陸に着いた。本人は最後までインドだと信じていた。
- イサベル1世人物AD1451年4月22日 – AD1504年11月26日レコンキスタを完了させ、コロンブスの航海に出資した。同じ年にユダヤ人を追放している。
- コンスタンティノープル陥落できごとAD1453年5月29日東の道が塞がった。海へ出る動機になるオスマン帝国が1100年続いた東ローマを滅ぼした。中世の終わりの目印として使われる。コンスタンティノープル

- アメリゴ・ヴェスプッチ人物AD1454年3月9日 – AD1512年2月22日新しい大陸に名が付いたコロンブスが着いた陸を、アジアではなく誰も知らなかった大陸だと書いた。1507年の世界地図が、その名を新しい陸に付ける。
- ヴァスコ・ダ・ガマ人物AD1460年代 – AD1524年アフリカを回ってインドに着いた。地中海を通らない交易路が開く。
- モクテスマ2世人物AD1466年頃 – AD1520年アステカ最後の全盛期の王。コルテスを迎え入れ、その混乱のなかで死ぬ。
- ペドロ・アルヴァレス・カブラル人物AD1467年頃 – AD1520年頃13隻のうち7隻を失ったガマの次にインドへ送られ、途中でブラジルに着いた。カリカットで工場を襲われ、報復に街を砲撃し、香料を積んで帰った。13隻のうち7隻を失った。二度目の航海はガマに取られ、田舎で死んだ。
- バルボア人物AD1475年頃 – AD1519年1月首は広場に晒されたエストレマドゥーラの貧乏貴族。イスパニョーラで借金し、樽に隠れてダリエンへ。入植地を作り、太平洋を見た。新しい総督ペドラリアスが来て、娘婿にし、それから反逆罪で斬った。首は広場に数日晒された。
- エルカーノ人物AD1476年 – AD1526年8月4日地球儀の紋章バスクのゲタリア。密輸で追われて航海に。マゼランに反乱して赦された。マゼランの死後、ビクトリア号を率いた。「最初に私を回った」の地球儀の紋章。1526年、二度目の太平洋で壊血病で死んだ。スペインの練習帆船の名。
- フランシスコ・ピサロ人物AD1478年頃 – AD1541年6月26日内戦で弱っていたインカを200人足らずで倒した。自身も仲間割れで殺される。
- マゼラン人物AD1480年頃 – AD1521年4月27日世界一周の航海を率いたが、本人はフィリピンで戦死した。船は西へ回り続けて帰り着く。
- エルミナ城の建設できごとAD1482年帰らずの門ポルトガルがギニアの黄金海岸に石を運んで城を建てた。サハラ以南で最初のヨーロッパの建物。金と、それから奴隷。1637年にオランダが取り、1872年にイギリスに売った。「帰らずの門」。いまはガーナの世界遺産で、アメリカから子孫が来る。エルミナ
- バルトロメ・デ・ラス・カサス人物AD1484年 – AD1566年7月18日インディアスの使徒父はコロンブスの二度目の航海に乗った。自分も新大陸で先住民を使い、40歳で悔い改めてドミニコ会に入り、50年、先住民のために書いて争った。「インディアスの使徒」。アフリカ人奴隷を代わりに提案したことを、晩年に悔いた。
- エルナン・コルテス人物AD1485年 – AD1547年12月2日数百人でアステカを崩した。決め手は武器よりも、現地の反アステカ勢力と持ち込まれた疫病だった。
- ジャック・カルティエ人物AD1491年 – AD1557年9月1日カナダのダイヤモンドは石英だったサン・マロの船乗り。3度セントローレンスへ行き、モントリオールの丘に登り、先住民の首長ドンナコナを連れ帰って死なせた。「カナダのダイヤモンド」は石英で、「カナダの金」は黄鉄鉱だった。故郷に帰って死んだ。
- コロンブスの到達できごとAD1492年10月12日二つの大陸が結ばれた。人・作物・家畜・病原体が行き来し、両側の世界が作り替えられる。サン・サルバドル島(位置は特定されていない)
- スペイン帝国国AD1492年(グラナダ陥落とコロンブスの航海) – AD1898年(米西戦争で最後の海外領土を失う)面として大陸を取った側アメリカ大陸の銀を運び、太平洋を横断する定期航路を持った最初の帝国。その銀は中国まで流れ、世界の物価を動かした。19世紀に大陸の領土をほぼ失う。
- スレイマン1世人物AD1494年 – AD1566年東の道を押さえていた側オスマンの最盛期の君主。ウィーンを囲み、地中海を制し、法を整えた。
- トルデシリャス条約できごとAD1494年6月7日地球に線を引いて二人で分けた大西洋に一本の線を引き、東をポルトガル、西をスペインと決めた。住んでいる人には誰も相談していない。トルデシリャス

- カボットのニューファンドランド到達できごとAD1497年6月24日一隻18人ヴェネツィア人がヘンリー7世の特許で、ブリストルから小さな船一隻、18人で西へ。5週間。「新しく見つけた土地」。魚が籠で掬えた。翌年、5隻で出て、帰らなかった。イギリスの北米の主張は、この一隻から。ヴァイキングの500年後。ニューファンドランド
- ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路できごとAD1498年アフリカを回ってインドに着いた。地中海を通らない交易路が開き、富の流れが変わる。リスボン
- カブラルのブラジル到達できごとAD1500年4月22日ブラジルがポルトガル語になった理由インドへ向かう13隻が、大西洋を大きく西に膨らんで、陸を見た。「真の十字架の地」と名づけて、木を切って十字架を立て、ミサをして、インドへ去った。トルデシリャス条約の線の東側だった。それでブラジルはポルトガル語になる。ポルト・セグロ
- カール5世人物AD1500年2月24日 – AD1558年9月21日時計を分解して過ごしたハプスブルク、ブルゴーニュ、カスティーリャ、アラゴンの相続人。19歳で皇帝。スペインとドイツと新大陸を一人で持ち、ルター、フランス、オスマン、教皇と40年戦い、フランス王を捕え、給料の出ない彼の兵がローマを略奪した。疲れて退位し、時計を分解して過ごした。
- レガスピ人物AD1502年 – AD1572年8月20日貧しく死んだバスクの公証人。メキシコで書記官。60歳で艦隊を任され、1565年にセブ、1571年にマニラ。フィリピンの初代総督。「王フェリペの島」。自分の金を使い切って、貧しく死んだ。
- ウルダネタ人物AD1508年 – AD1568年6月3日帰り道17歳で香料諸島へ、8年で帰った。アウグスティノ会の修道士になった。60歳で「帰り道」を探しに呼ばれた。北緯38度まで上がって偏西風で東へ。4か月。ウルダネタの道。250年、ガレオンが同じ道を通った。
- マラッカの陥落できごとAD1511年ポルトガルが東南アジア交易の要衝を押さえた。ヨーロッパのアジア進出の足がかりになる。マラッカ
- バルボアの太平洋到達できごとAD1513年9月25日樽に隠れて船に乗った男借金取りから逃げて樽に隠れて船に乗った男が、パナマの地峡を190人で25日かけて越え、丘の上から南の海を見た。海に入って剣を掲げ、スペイン王のものだと宣言した。6年後、その総督に斬られた。ダリエン
- 天然痘のアメリカ大陸上陸できごとAD1520年スペイン人より先に、病が帝国を崩した。免疫を持たない大陸で、人口の大半が一世紀のうちに失われる。テノチティトラン
- テノチティトランの陥落できごとAD1521年人を殺したのは武器ではなく疫病だったアステカが滅びた。決め手は武器よりも、持ち込まれた疫病だった。テノチティトラン

- マゼランの太平洋横断できごとAD1521年99日かけて太平洋を渡った。海図が無く、この海の広さを誰も知らなかった。グアム
- エルカーノの世界周航の完成できごとAD1522年9月6日最初に私を回ったマゼランがマクタンで死んだあと、バスクの航海士が18人でビクトリア号をセビリアに戻した。5隻270人で出て、1隻18人。3年。積んだ丁子で航海の費用は出た。皇帝は地球儀の紋章を与えた。「最初に私を回った」。日付が一日ずれていることに、帰って気づいた。セビリャ
- フェリペ2世人物AD1527年5月21日 – AD1598年9月13日机で世界を治めた父の帝国の半分と、ポルトガルとフィリピンを継いだ。「日の沈まぬ帝国」の王で、エスコリアルの机で世界を書類で治めた。レパントで勝ち、ネーデルラントを失い、アルマダを失い、4度破産した。イングランド女王メアリの夫でもあった。
- カハマルカの戦いできごとAD1532年11月16日168人が皇帝を捕らえた168人のスペイン人が、数万の軍の目の前で皇帝を捕らえた。スペイン側の死者はいない。ダイアモンドはこの日を本の問いの出発点にする。カハマルカ

- インカ帝国の滅亡できごとAD1533年内戦で弱っていたところを、200人足らずのスペイン人に崩された。クスコ
- カルティエのセントローレンス川できごとAD1535年カナダは「村」フランスの船乗りが川を遡り、イロコイ語の「村」を意味する言葉から「カナダ」と呼んだ。冬に壊血病で25人を失い、先住民が松の煎じ汁を教えた。金を持ち帰れず、フランスは70年、そこを忘れた。ケベック
- フランシス・ドレーク人物AD1540年頃 – AD1596年1月28日エル・ドラケデヴォンの農家の子で、奴隷貿易から始めた。スペインの財宝船を襲い、世界を回り、カディスで「スペイン王の髭を焦がし」、アルマダで副司令官。スペインでは「エル・ドラケ」、竜。パナマ沖で赤痢で死に、鉛の棺で海に沈められた。
- ポトシ銀山の開発できごとAD1545年南米の銀がヨーロッパを経て中国へ。最初の地球規模のお金の流れ南米の銀がヨーロッパを経て中国へ流れた。世界で最初の、地球を回るお金の流れ。ポトシ
- ザビエルの来日できごとAD1549年8月15日(天文18年7月22日)マラッカで会った薩摩の男ヤジロウの案内で、イエズス会のバスク人が鹿児島に着いた。2年3か月。鹿児島、平戸、山口、京都、豊後。「日本人はこれまで会った民の中で最も優れている」。京都は荒れて天皇にも将軍にも会えず、山口の大内義隆に望遠鏡と時計を贈って布教を許された。中国へ渡ろうとして、広州沖の島で死んだ。鹿児島
- 塩ダラできごとAD16世紀ニューファンドランド沖の浅瀬には、底が見えないほどのタラがいた。十六世紀、バスク、ポルトガル、フランス、イングランドの漁師たちが毎年大西洋を渡り、夏のあいだタラを釣った。タラは脂が少ないので、塩をして浜の棚で風に干せば、板のように固くなって何年も持つ。塩の豊かな南の国の船は塩をたっぷり使い、塩の乏しいイングランドの船は陸に上がってよく干した。干しダラは船乗りの食料になり、カトリックの国々の断食の日の食卓に並び、やがて西インドの農園で働かされる人々の食べ物にもなった。セントジョンズ
- ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』できごとAD1552年黒い伝説の元ドミニコ会の司教が、自分が見たスペイン人の殺戮を王子に報告する形で印刷した。「1200万人を超え、実は1500万人を超える」。数字は誇張とされるが、告発は本物で、敵国が訳して回覧し、「黒い伝説」の元になった。セビリャ

- ウォルター・ローリー人物AD1552年 – AD1618年10月29日鋭い薬だエリザベスの寵臣。ヴァージニアの特許。自分は行かなかった。タバコとジャガイモをイングランドに広めた、と伝える。女王の侍女と密かに結婚して塔へ。ギアナの黄金郷を探した。ジェームズ1世に13年幽閉され、『世界史』を書き、スペインの求めで斬首。「鋭い薬だ」。
- カール5世の退位できごとAD1555年10月25日帝国が二つになったスペイン、ネーデルラント、ナポリ、新大陸を息子フェリペに、帝位を弟フェルディナントに分けて、皇帝は修道院に引きこもった。「日の沈まぬ帝国」は、その日から二つになった。息子の側が、日の沈まない側だった。ブリュッセル
- ヘンリー・ハドソン人物AD1565年頃 – AD1611年頃氷の海に消えた生まれも育ちも分からない。4回の航海で、北極、ハドソン川、ハドソン湾。マンハッタンを見た最初のヨーロッパ人の一人。最後の航海で船員に小舟に乗せられ、氷の海に消えた。反乱者は帰って、裁かれなかった。
- ドレークの世界周航できごとAD1580年9月26日船の上で騎士にした海賊がスペインの船を襲いながら3年で地球を回った。持ち帰った金銀は女王の年収の倍で、女王は船の上で騎士にした。スペインは引き渡しを求め、女王は断った。8年後のアルマダは、ここから始まる。プリマス
- イベリア連合できごとAD1580年スペイン王がポルトガル王を兼ねた60年。二つの帝国が一人の君主の下に並ぶが、統合はされなかった。リスボン
- ネーデルラント連邦共和国国AD1581年(廃位布告) – AD1795年(フランス軍の侵入による崩壊)王を戴かない共和国が、80年戦ってスペインから独立した。人口200万の国が、17世紀の世界の海運の半分を握る。株式会社と証券取引所と中央銀行が、ここでほぼ同時に生まれた。
- ロアノークの失われた植民地できごとAD1587年CROATOANローリーの特許で115人が上陸し、ヴァージニア・デアが生まれた。総督ホワイトが補給に帰り、アルマダの戦争で3年戻れなかった。1590年、誰もいなかった。柱に「CROATOAN」。捜索は嵐で中止。何が起きたかは、いまも分からない。イギリスの最初の植民地は、消えた。ロアノーク島
- バレンツの越冬できごとAD1596年北東航路北東航路を探して三度目、ノヴァヤゼムリャで船が氷に閉じられた。流木で小屋を建て、白熊と極夜と壊血病の中で10か月。6月、ボート2隻で出て、バレンツは7日目に死んだ。12人が帰った。1871年、小屋が見つかった。時計、本、フルート。彼の名の海。ノヴァヤゼムリャ
- オランダ東インド会社の設立できごとAD1602年3月20日誰でも株を買え、その株を転売できる会社の最初。国ではなく会社が艦隊と兵を持ち、200年アジアの海を握った。アムステルダム
- アベル・タスマン人物AD1603年 – AD1659年10月10日利益を持ち帰らなかったオランダ東インド会社の船長。1642年にタスマニアとニュージーランドとトンガとフィジーを見て、オーストラリアを見なかった。会社は「臆病で、利益を持ち帰らなかった」と評した。バタヴィアで、酔って部下を吊るそうとして降格された。
- ジェームズタウンの建設できごとAD1607年5月14日飢餓の時ヴァージニア会社の104人が沼地の半島に砦を建てた。金を探して、畑を作らず、最初の夏から秋で半分が死んだ。1609年の冬は「飢餓の時」、500人が60人に。人を食べた。ポカホンタス、ジョン・ロルフ、タバコ。1619年、最初のアフリカ人。イギリスの北米で、最初に残った植民地。ジェームズタウン
- ハドソン湾の発見と遭難できごとAD1611年6月小舟に乗せて置き去り北西航路を探して湾に入り、氷に閉じ込められて越冬した。春、船員が反乱して、ハドソンと息子と病人7人を小舟に乗せて置き去りにした。二度と見つからなかった。湾も川も海峡も、その名になった。ハドソン湾
- タスマンのタスマニア・ニュージーランド到達できごとAD1642年11月24日オーストラリアを見ずに一周オランダ東インド会社が南の大陸を探しに出した。タスマニアに名をつけ、ニュージーランドでマオリに4人殺されて上陸せず、オーストラリア本体を見ないまま一周して帰った。「利益がない」と会社は言った。タスマニア(位置は特定されていない)
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
探検と発見17件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。『サピエンス全史』で読む歴史13件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史12件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史11件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。交易路とお金7件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。接触前のアメリカ7件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。帝国と独立6件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。『地中海』で読む歴史5件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『収奪された大地』で読むラテンアメリカ5件を共有 / 500年の歴史を、何が持ち去られたかで書く。金、銀、砂糖、ゴム、コーヒー、銅、石油。感染症と人類4件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。『疫病と世界史』で読む歴史4件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『近代世界システム』で読む歴史4件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。『リオリエント』で読む世界経済4件を共有 / 1800年まで、世界経済の中心はアジアだった。ヨーロッパは、その列に遅れて並んだ客にすぎない。海の歴史4件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史3件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『1491』『1493』で読む新大陸3件を共有 / コロンブス以前のアメリカは人の少ない原野ではなかった。以後の世界は、生き物の大移動でできている。イスラム世界2件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。民族移動の時代2件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。『大分岐』で読む歴史2件を共有 / 1800年まで、長江下流とイングランドは同じくらい豊かだった。分かれたのは石炭と植民地のせいだ、という本。『世界史』(マクニール)で読む歴史2件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀2件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。『物質文明・経済・資本主義』で読む三つの層2件を共有 / 毎日の暮らし、市場での取引、そしてその上に乗る資本主義。ブローデルは経済を三層に分けた。宗教改革と科学革命1件を共有 / 教会が独占していた「何が正しいか」の答えが、聖書と観測に明け渡されるまで。武士の700年1件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。中国の王朝1件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。女性の権利1件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。都市の歴史1件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。東ローマ千年1件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。主権はだれのものか1件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。キリスト教のひろがり1件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。コテンラジオで聞く歴史1件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ1件を共有 / ギボンが1776年に出しはじめた、トラヤヌスからコンスタンティノープル陥落までの1300年。「なぜ滅びたか」を問う型はここで作られた。『繁栄』で読む歴史1件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『負債論』で読む歴史1件を共有 / お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。『中国の科学と文明』で読む技術の歴史1件を共有 / 中国には長い科学技術の蓄積があった。では、なぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス1件を共有 / 「ルネサンス」という時代の像そのものを作った本。150年たっても、まだその像の中にいる。『交易の世界史』で読む物の流れ1件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。働くことの歴史1件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。お金の歴史1件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。食の歴史1件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史1件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。交通と旅の歴史1件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。