概要
ジェームズ1世の次男。兄が死んで王太子。どもり、背が低く、内気で、頑固。「王権神授」。1629年から11年、議会なしで統治した(船舶税)。ロードの高教会、スコットランドに祈祷書を押しつけて、戦争。1640年、議会。1642年、議会に5人の議員を捕らえに来て、逃げられて、内戦。ネイズビー。捕虜になり、スコットランドと密約して、第二次内戦。処刑。ヴァン・ダイクの肖像。国教会は殉教者にした。
関わったできごと(1)
チャールズ1世の処刑AD1649年1月30日 · 処刑された本文
1600年11月19日、ダンファームリン(スコットランド)。ジェームズ6世(1603年からイングランド王ジェームズ1世)の次男。病弱で、足が弱く、3歳まで歩けず、どもりが生涯残った。兄ヘンリーが優秀で人気で、1612年に18歳で腸チフスで死んだ。チャールズが王太子。父は「英国のソロモン」で、政治を教えた。「王は神から。議会は王の道具」。
1623年、寵臣バッキンガム公と、変装してマドリードへ行って、スペインの王女に求婚した(失敗。帰って、スペインとの戦争を求めた)。1625年3月、王。5月、フランスの王女アンリエット・マリー(カトリック、15歳)と結婚(代理で。侍女とカトリックの司祭が問題に)。1625年、1626年、1628年、議会。バッキンガムの弾劾、強制公債、兵の民家への宿営、権利の請願(1628年。議会の同意なしの課税、恣意的な投獄、の禁止。チャールズは署名して、守らなかった)。1628年8月、バッキンガムが刺された。チャールズは妻を愛するようになった。1629年3月、議会を解散。
11年。「個人統治」「暴政の11年」。金。船舶税(沿岸の州に軍艦の費用を課す古い税を、内陸にも、毎年)。1637年、ハムデンが払わず、裁判で7対5で王が勝った(負けたようなもの)。独占の売却。騎士強制金。ウィリアム・ロード(カンタベリー大主教、1633年〜)の「美しい聖性」。祭壇を東へ、柵、聖餐台、儀式。清教徒には「教皇主義」。星室庁、高等宗務官裁判所。プリン、バートン、バストウィックの耳(1637年)。
スコットランド。1637年7月23日、エディンバラの聖ジャイルズ教会で、新しい祈祷書(ロードの)を読み上げようとして、ジェニー・ゲデスが腰掛けを投げた(と伝える)。1638年、国民盟約。1639年、第一次主教戦争(戦わずに終わった)。1640年4月、短期議会(3週間で解散)。8月、スコットランド軍がニューカッスルを取った。金がない。11月3日、長期議会。ストラフォード(アイルランド総督、王の最も有能な側近)を弾劾、私権剥奪法、1641年5月12日、処刑。チャールズは署名した(「ストラフォードの頭を、私の首の代わりに」。生涯、悔いた)。星室庁と高等宗務官裁判所の廃止。3年ごとの議会。議会の同意なしの解散の禁止。1641年10月、アイルランドの反乱(カトリックがプロテスタントを殺した。噂は数万)。11月、大諫奏(204か条。159対148)。
1642年1月4日。チャールズは400人の兵を連れて下院に入り、ピム、ハムデン、ホリス、ヘイズルリグ、ストロードを逮捕しようとした。5人はいなかった(知らせを受けて、川で逃げた)。「鳥は飛び去ったな」。議長レンソールは跪いて「陛下、私はこの場所では、下院が命じる以外に、目も舌もございません」。1月10日、チャールズはロンドンを出た。8月22日、ノッティンガムで王の旗を立てた。
内戦。エッジヒル(1642年10月、引き分け)、ニューベリー、マーストン・ムーア(1644年7月、負け)、ネイズビー(1645年6月14日、負け。王の手紙の入った箱が奪われ、妻への手紙で、アイルランドのカトリックと外国の軍を求めていたことが公開された)。1646年5月、ニューアークの近くで、スコットランド軍に投降。
1647〜48年。捕虜として、交渉して、逃げて、また交渉して、密約して。「私は、神の下で、自分の良心以外の裁判官を持たない」。彼は何度も約束して、何度も破った。軍は「この人とは交渉できない」と結論した。
1649年1月30日。
絵。ヴァン・ダイク(1632年から宮廷画家)。『狩猟のチャールズ1世』(ルーヴル)、『三方から見たチャールズ1世』(ベルニーニの胸像のために。ベルニーニは「これほど不幸な顔を見たことがない」と言った、と伝える)。マンテーニャの『カエサルの凱旋』、ティツィアーノ、ラファエロ、レオナルドの手稿(マントヴァのゴンザーガ家のコレクションを買った。1400点)。ヨーロッパで最高のコレクションの一つで、処刑のあと売られた(ルーヴルとプラドとウィーンに散った)。
「イングランドの王が、イングランドの法廷で、イングランドの人民の名において裁かれた」。1660年、王政復古。彼の息子が王に。1661年、殉教者に。ロンドンのチャリング・クロスに騎馬像(1633年、ル・スュールの作。共和国が溶かすよう命じ、鋳物師が隠して、1675年に立てた)。