タルクィニウスの追放(王政の廃止)
概要
王の息子がルクレティアを犯し、彼女が自殺し、ブルトゥスが短剣を掲げて王を追った。二人の執政官を1年で選ぶ共和政。ブルトゥスは自分の息子二人が王の復帰を謀ったのを処刑した。「王」はそれからローマで最も憎まれる言葉になった。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(2)
タルクィニウス・スペルブス?–BC495年 · 追われた王ルキウス・ユニウス・ブルトゥス?–BC509年 · 追った本文
ローマの王政の終わりを伝える話は、ほとんどがリウィウスの『ローマ建国以来の歴史』第1巻の終わりと第2巻の初めにある。リウィウスはアウグストゥスの時代、事件から500年近く後の人で、手元にあったのは家々の言い伝えと、それを書き留めた先行の歴史家たちだった。だからこれは史実の記録というより、ローマ人が自分たちの共和政の始まりとして語り継いだ物語として読むのがよい。
舞台は、七代目の王タルクィニウス・スペルブス(傲慢王)の治世の終わりである。王は元老院に諮らずに裁き、有力者を殺し、市民を大下水道や神殿の工事に駆り出した、とリウィウスは書く。ローマ軍がルトゥリ人の町アルデアを囲んでいたある夜、王の息子たちと親族のコッラティヌスが酒の席で妻の自慢をした。確かめようと馬でローマへ戻ると、王子たちの妻は宴に興じ、コッラティヌスの妻ルクレティアだけが夜更けに侍女と糸を紡いでいた。

数日後、王子セクストゥス・タルクィニウスがひとりでコッラティアの家を訪ね、客としてもてなされた。夜、剣を手に寝室へ入り、従わなければ殺し、奴隷の死体を隣に置いて姦通の現場を押さえたと言いふらす、と脅した。翌朝ルクレティアは父と夫を呼んだ。父はプブリウス・ウァレリウスを、夫はルキウス・ユニウス・ブルトゥスを伴って来た。彼女は事情を話し、復讐を誓わせると、隠していた短剣で自らの胸を刺した。
ブルトゥスはその短剣を抜き取り、王とその妻子を追い、二度とローマに王を置かないと誓った。ブルトゥスは王の甥で、王に兄を殺されたあと、愚か者を装って命をつないでいたと伝えられる。「ブルトゥス」はもともと「間抜け」の意味である。王子たちとデルフォイへ行ったとき、「最初に母に口づけした者がローマを治める」という神託を聞いて、わざと転んで大地に口づけした、という逸話もある。

ブルトゥスは遺体をフォルムに運び、市民を集めて王の罪を数え上げた。民会は王の権力を奪い、一家の追放を決めた。陣中から急いで戻った王の前で城門は閉ざされ、王は二人の息子とともにエトルリアの町カエレへ去った。セクストゥスはガビイへ逃れ、そこで殺された。
王に代わって、任期1年の執政官を毎年2人選ぶことになった。最初の執政官はブルトゥスとコッラティヌスだったが、コッラティヌスはタルクィニウスの一族だというだけで辞任を迫られ、ウァレリウスが後を継いだ。権力を一人に持たせない、長く持たせない、という共和政の骨組みが、ここで語られている。

まもなく、王の復帰を図る陰謀が発覚した。加わった若者の中にブルトゥスの二人の息子がいた。奴隷の密告で露見し、息子たちは父が執政官として見届ける前で鞭打たれ、斧で首を落とされた。リウィウスは、その間、父の顔に父親としての心がにじみ出ていたと書き、後の作家の中には眉ひとつ動かさなかったと書く者もいる。公の義務と私情の板挟みは、後世の画家が繰り返し描く主題になった。
王は諦めなかった。エトルリアのウェイイとタルクィニイの兵を借りて攻め、アルシアの森の戦いでは、ブルトゥスと王子アッルンスが互いの槍に貫かれて死んだ。次にクルシウムの王ポルセンナが攻め寄せ、ここからホラティウス・コクレスが一人で橋を守った話、ムキウス・スカエウォラが自分の右手を火にかざした話、人質の少女クロエリアがティベル川を泳いで逃げた話が生まれる。最後はラテン人の連合とともに戦ったレギッルス湖の戦い(伝承でBC499年またはBC496年)に敗れ、老王はクマエに身を寄せて死んだとされる。

この話がどこまで本当かは分からない。ポリュビオスは、ローマとカルタゴの最初の条約を「王の追放後の最初の執政官」ルキウス・ユニウス・ブルトゥスの年のものとして伝えており(ポリュビオス)、BC6世紀末に政体が変わったこと自体は多くの研究者が認める。一方で、タキトゥスはローマがポルセンナに降伏したことがあったと書き、大プリニウスはポルセンナが鉄を農具にしか使わせない条約を課したと伝える。王を追ったのはローマ人ではなくポルセンナだった、という見方もある。最初から二人の執政官だったのかも疑われている。アテナイで僭主ヒッピアスが追われたのはBC510年で、クレイステネスの改革がその直後に続く。二つの都市の自由が同じ頃に始まるのは、後から合わせた年代かもしれない。
確かなのは、「王(レックス)」がその後のローマで最も忌まれる言葉になったことだ。王の祭祀を受け継ぐ神官だけは「祭祀の王」と呼ばれたが、政治の役職に就くことを禁じられた。ガイウス・ユリウス・カエサルは「私はカエサルであって王ではない」と言い、ルペルカリア祭で差し出された冠を退けたと伝えられる。それでも王位を狙う者と見なされ、初代ブルトゥスの子孫を名乗るマルクス・ブルトゥスらに刺された(カエサル暗殺)。ルクレティアの話は、ウィリアム・シェイクスピアの物語詩、ティツィアーノやレンブラント・ファン・レインの絵、ブリテンの歌劇に描き継がれた。一人の女性の死から共和政が始まる、という筋を、ローマ人は自分たちの始まりとして選んだのである。