ステンカ・ラージン
概要
ドン・コサックの家。兄を政府軍に処刑された。1667年からカスピ海でペルシアの沿岸を略奪して、英雄になった。1670年、ヴォルガを遡って農民の反乱に。「善き皇帝と、悪しき貴族」を掲げた(皇太子と総主教が自分と一緒にいる、と偽った)。捕らえられて、モスクワで四つ裂き。歌と伝説になり、1908年、ロシア最初の劇映画が彼を撮った。
関わったできごと(1)
ステンカ・ラージンの乱AD1670年 · 率いた本文
ステパン・チモフェーエヴィチ・ラージン、通称ステンカ・ラージンは1630年頃、ドン川流域のコサックの家に生まれた。生地はジモヴェイスカヤ村とされ、のちの反乱指導者プガチョフと同じ村だという伝承があるが、確かではない。コサックとは、ロシアの南の辺境、ドン川やヴォルガ川の流域の草原に住みついた自由民の戦士集団である。逃亡した農奴や貧民が流れ込んで生まれ、自分たちで首領を選び、モスクワのツァーリに仕えながらも、税を納めず、農奴にもならない暮らしを守っていた。

ラージンの家は、早くから住みついた古参の、比較的豊かなコサックだった。彼は若いうちからドン・コサックの使節団に加わってモスクワを訪れ、北の白海に浮かぶソロヴェツキー修道院まで巡礼した。草原の諸民族の言葉にも通じていたという。人生が変わったのは1665年である。兄イヴァンが、ポーランドとの戦争に従軍していた部隊を、自由民であるコサックの権利を盾に勝手にドンへ帰そうとして、ロシア軍の司令官ユーリー・ドルゴルーコフ公に捕らえられ、処刑された。ステパンはこれを深く恨んだと伝えられる。
当時のロシアは、ロマノフ朝の第2代ツァーリ、アレクセイの治世だった(ロマノフ朝の始まり)。1649年の法典で農民の移動の自由が奪われ、農奴制が固まっていた。重い税と兵役から逃れた人々がドンに流れ込み、土地も財産も持たない「裸の」コサックが増えていた。

1667年、ラージンはそうした貧しいコサックを集め、略奪の遠征に出た。ヴォルガを下って政府や商人の船を襲い、ウラル川沿いの町には巡礼を装って入り込み、奪い取った。翌1668年から69年にかけてはカスピ海に乗り出し、ペルシア(サファヴィー朝)の沿岸の町を次々に荒らした。1669年、シャーが送り出した艦隊をカスピ海の島の沖で打ち破ると、戦利品を満載してアストラハンに戻った。総督は、船と大砲を引き渡すことを条件に、彼らの罪を許した。絹の衣をまとったコサックたちが金貨をばらまく姿を、町の人々は驚いて見た。ラージンの名は、この遠征でヴォルガ一帯に知れ渡った。
1670年春、彼は再び兵を挙げた。今度の相手はツァーリの役人と貴族だった。ヴォルガを遡ってツァリーツィンを取り、6月にはアストラハンを落として、総督プロゾロフスキーを鐘楼から突き落とした。サラトフ、サマラの町も、門が内側から開かれた。彼は、ツァーリに逆らうのではなく、ツァーリと民を裏切る貴族と役人を討つのだと唱えた。前年に死んでいた皇太子アレクセイと、失脚していた総主教ニコンが自分の船団に同行している、と触れ回った。善いツァーリと悪い家臣という図式は、ロシアの民衆反乱で繰り返し現れる型である。村々には、領主を殺して自由になれと呼びかける檄文が回った。
反乱はヴォルガ中流の広い地域に広がった(ステンカ・ラージンの乱)。加わったのはコサックだけではない。領主に縛られた農奴、町の貧民、そしてヴォルガ沿いに住むチュヴァシ、マリ、モルドヴィンなどの諸民族も立ち上がった。しかし1670年秋、シンビルスクの包囲戦で、外国人の将校に訓練された新式の連隊を含む政府軍に敗れた。ラージンは重い傷を負い、ドンへ逃げ帰った。

ドンの古参のコサックたちは、モスクワの報復を恐れていた。また、貧しい者を引き連れて秩序をひっくり返そうとするラージンを、もともと好んでいなかった。1671年4月、彼らはラージンと弟フロールを捕らえ、モスクワに引き渡した。6月、ラージンは厳しい拷問の後、赤の広場で四つ裂きの刑に処された。右腕と左脚を切り落とされても声を上げなかった、と居合わせた外国人は書き残している。それを見ていた弟が、ツァーリに申し上げることがあると叫んだため、弟の処刑はその場で延期された。ステパンはその後、首を斬られた。反乱の残党がこもったアストラハンが落ちたのは、その年の11月だった。
ラージンは死後、ロシアの民衆の歌と伝説の中で生き続けた。オランダ人の船乗りストライスは旅行記に、ラージンが捕らえたペルシアの姫を、ヴォルガへの捧げ物として舟から川に投げ込んだ、という話を書き留めた。19世紀末にこの場面が詩になり、曲がつけられて、ロシアで最もよく知られた民謡の一つになった。1908年には、この場面を描いた短い映画が、ロシアで最初の劇映画として作られている。詩人プーシキンは彼を、ロシアの歴史で唯一の詩的な人物と呼んだ。ソヴィエト時代には農民戦争の指導者として称えられ、各地の通りに名が付けられた。100年後に同じドンの地から起きたプガチョフの乱とともに、ロシアの農奴制の時代に虐げられた民の怒りを象徴する名前になっている。その農奴制が廃止されたのは、ラージンの死から190年後の農奴解放令によってだった。