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Person / 人

ステンカ・ラージン

Stenka Razin
AD1630年頃 – AD1671年6月16日(享年41・推定)
ドン・コサック重要度 4

概要

ドン・コサックの家。兄を政府軍に処刑された。1667年からカスピ海でペルシアの沿岸を略奪して、英雄になった。1670年、ヴォルガを遡って農民の反乱に。「善き皇帝と、悪しき貴族」を掲げた(皇太子と総主教が自分と一緒にいる、と偽った)。捕らえられて、モスクワで四つ裂き。歌と伝説になり、1908年、ロシア最初の劇映画が彼を撮った。

関わったできごと(1)

ステンカ・ラージンの乱AD1670年 · 率いた

本文

ステパン・チモフェーエヴィチ・ラージン。1630年頃、ドン川のジモヴェイスカヤ村(プガチョフも同じ村の出)。裕福な古参コサックの家。父チモフェイ。ドン軍の使節として、3度モスクワへ行き、ソロヴェツキー修道院へ巡礼した。カルムイク語とタタール語を話した。

1665年、兄イヴァンが、ポーランドとの戦線から部下を連れて帰ろうとして、ロシアの将軍ドルゴルーコフに絞首刑にされた。ステパンは復讐を誓った、と伝える。

1667年、「絹の航海」。1000人でヴォルガへ出て、船を襲い、ヤイク(ウラル)川の町を、巡礼者を装って入って取った。1668〜69年、カスピ海。ペルシアの沿岸を荒らした。デルベント、バクー、レシュト、ファラハバード。ペルシアのシャーが艦隊(50隻)を出して、ラージンが破った(「豚の島の戦い」)。1669年8月、戦利品を満載してアストラハンへ戻り、総督に船と大砲を渡す条件で赦されて、ドンへ帰った。絹の衣を着て、金貨を撒いた。伝説になった。

1670年5月、また出た。今度は違った。「私は貴族と、総督と、役人と、書記を殺す。皆に自由を与える」。ツァリーツィン(6月)、アストラハン(6月22日。総督プロゾロフスキーを鐘楼から突き落とした)、サラトフ、サマラ、シンビルスク。町の門が内側から開いた。

「良き皇帝」の名を使った。2隻の舟を仕立てて、1隻に「皇太子アレクセイ」(前年に死んでいた)、1隻に「総主教ニコン」(追放されていた)が乗っている、と言った。「私は皇帝に逆らうのでなく、皇帝を裏切る貴族に逆らう」。ロシアの民衆反乱の型。

農民、ヴォルガ沿いの非ロシア人(チュヴァシ、マリ、モルドヴィン、タタール)、修道院の農奴、町の貧民。20万人と言われる。「魅惑の手紙(プレレストヌィエ・グラモートィ)」が村々に回った。

1670年10月、シンビルスク。バリャチンスキー公の正規軍(外国人将校が訓練した新式部隊)に負けた。ラージンは頭と足を負傷して、船でドンへ。1671年4月14日、ドンの古参コサック(モスクワの報復を恐れ、また彼の平等主義を嫌った)が、彼と弟フロールを縛って、モスクワへ引き渡した。

6月16日(旧暦6日)、赤の広場のロブノエ・メスト(処刑台)。拷問(鞭、火、水を頭に一滴ずつ落とす)の後、四つ裂き。右腕、左脚、左腕、右脚、そして首。一言も呻かなかった、と外国人の目撃者は書いた。弟が、兄の腕が落ちるのを見て「私は皇帝に言うべきことがある」と叫んで、処刑が止められた。

1671年11月、アストラハンが落ちて、反乱は終わった。処刑された人の数は分からない(10万人という数字が伝わるが、根拠は薄い)。

歌。「ヴォルガの向こうから、島の陰から」。オランダ人ヤン・ストライスが1676年の旅行記に、ラージンがペルシアの太守の娘を舟から川に投げた、と書いた(ヴォルガへの捧げ物として)。1883年、ドミトリー・サドフニコフが詩にして、民謡になった。ロシアで最も知られた歌の一つ。1908年、ロシア最初の物語映画『ステンカ・ラージン』(ドランコフ)が、この場面を撮った。

プーシキンは彼を「ロシアの歴史で唯一の詩的な人物」と呼んだ。ソ連は「農民戦争の指導者」として英雄にした。