できごと

武家諸法度

Buke shohatto
AD1615年8月30日(元和元年7月7日)
重要度 5
ロシア帝国中央アジアの諸ハン国スペイン帝国明チベットイスラムとヒンドゥーの諸国アユタヤ朝Koryaks日本シャン諸邦大越朝鮮王朝Itelmen大越ビルマの諸王国カンボジアラオスLan NaアイヌモシリPeguAD1615年8月30日(元和元年7月7日)京都
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概要

大坂の陣の2か月後、伏見城で秀忠の名で13か条。文武弓馬の道、城の修理は届け出、新しい城は禁止、無断の婚姻は禁止、大名の交際は禁止。金地院崇伝が起草した。同時に一国一城令で大名の城を一つに。1635年、家光が参勤交代を加えた。将軍が代わるたびに読み上げた。260年の大名統制の憲法。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(2)

徳川家康AD1543年–AD1616年 · 作らせた徳川秀忠AD1579年5月2日–AD1632年3月14日 · 名で

本文

1615年5月、大坂の陣で豊臣家が滅んだ。関ヶ原から15年、徳川家に正面から挑める大名はいなくなった。残る課題は、全国に200を超える大名を、どうやって長く従わせ続けるかだった。戦いで勝つことと、勝ち続けることは別の仕事になる。

大坂の陣のひと月後、幕府は一国一城令を出した。大名は、自分の領国の中で、居城を一つだけ残し、ほかの城はすべて壊さなければならない。数日のうちに、全国でおよそ400の城が取り壊されたと言われる。戦国の世に各地に築かれた城の多くが、ここで姿を消した。

徳川家康の肖像
徳川家康Wikimedia Commons Kanō Tan'yū · Public domain

そして7月7日、2代将軍徳川秀忠が伏見城に大名を集め、その前で武家諸法度が読み上げられた。命じたのは大御所の徳川家康で、起草したのは家康の側近の禅僧、金地院崇伝だった。崇伝は外交文書や寺社の統制にも携わり、のちに「黒衣の宰相」と呼ばれた人物である。13か条は漢文で書かれ、多くの条に中国や日本の古典を引いた解説が付いていた。

最初の条は、文武弓馬の道にひたすら励むこと、を求める。続いて、大勢で酒を飲み遊び暮らすことを戒め、法に背いた者や反逆者、殺人者を領国にかくまうことを禁じた。城については、修理するときでも必ず幕府に届け出ること、新しく城を築くことは堅く禁じる、と定めた。隣の国で新しい企てをしたり徒党を組んだりする者があれば、すぐに報告すること。幕府の許しなく大名どうしで婚姻を結ばないこと。さらに、参勤のときの作法、身分に応じた衣服と乗り物、武士の倹約、国主は政治のできる者を家臣に選ぶこと、が並ぶ。

徳川秀忠の肖像
徳川秀忠Wikimedia Commons The author creates a file. · Public domain

条文の中身は、大名を軍事の面で縛ることに重きがあった。城を増やさせず、大名どうしが結びつかないよう婚姻を管理し、互いに見張らせる。豊臣政権のもとで大名たちが婚姻を通じて結びつき、それが関ヶ原の対立につながったことを、家康はよく知っていた。武家諸法度が出されたのと同じ月には、天皇と公家を規制する禁中並公家諸法度と、寺院を統制する法度も出されている。武家と朝廷と寺社のそれぞれに、守るべき枠がはめられた。

武家諸法度は、将軍が代わるたびに改めて大名に示された。3代徳川家光の1635年の改定では19か条に増え、大名が一年ごとに江戸と国元を行き来する参勤交代の制度化が正式に定められ、大きな船を造ることも禁じられた。5代徳川綱吉の1683年の改定では、第一条が、文武忠孝に励み、礼儀を正すこと、に改められた。戦の技よりも、主君への忠と親への孝、礼儀を重んじる。戦いのない時代の武士の姿が、条文の言葉に表れている。6代家宣のときには、新井白石が条文を和文に改め、儒学の考えを色濃く盛り込んだ。だが8代徳川吉宗はこれを退け、綱吉のときの条文に戻した。以後はこの条文が代々読み上げられていく。

新しい法度が示されるときは、江戸城の大広間に大名たちが集められ、将軍の前で条文が読み上げられた。1635年の寛永の改定では、幕府に仕えた儒者の林羅山が読み上げ役を務めたとされる。大名より下の、将軍に直接仕える旗本や御家人に対しては、別に諸士法度が定められた。

法度に背いた者には、領地の没収という重い罰が待っていた。豊臣恩顧の大名として知られた福島正則は、広島城を幕府の許しなく修理したとして、1619年に安芸と備後のおよそ50万石を取り上げられ、信濃の小さな領地に移された。届け出はしていたが許可を待たずに工事を進めた、とも言われる。江戸時代の初期には、法度違反のほか、跡継ぎがいないことや家中の争いを理由に、多くの大名家が取り潰された。とくに家康から家光までの三代では、外様の大名が数多く改易され、その領地は徳川の一門や譜代の大名に与えられた。改易が増えて主を失った浪人が世にあふれ、それが社会の不安を生んだことから、のちには跡継ぎの決め方の規制が緩められていく。

武家諸法度は、のちの言い方で言えば、大名を縛る基本の法だった。ただし、すべてが条文どおりに運用されたわけではない。条文に書かれていない妻子の江戸居住のような慣行も、法度と並んで大名を縛った。逆に、条文に背いても、幕府との関係しだいで見逃される場合もあった。法度は、幕府が大名を罰するときの根拠であり、大名が幕府の顔色をうかがうための物差しでもあった。

大名は、この条文の中で260年を生きた。戦国の大名は、自分の力で領国を守り、隣国を攻める独立した君主だった。江戸の大名は、幕府に城の修理の許しを求め、婚姻の許しを求め、一年おきに江戸へ出て将軍に仕える存在になった。その転換の最初の一歩が、伏見城で読み上げられた13か条だった。体制が揺らいだ幕末、幕府はもはや大名を法度で縛ることができなくなり、江戸幕府の成立は終わりを迎える。

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