できごと

第三次パーニーパットの戦い

Third Battle of Panipat
AD1761年
重要度 3
第三次パーニーパットの戦いに関わる図版:The Third battle of Panipat 13 January 1761
The Third battle of Panipat 13 January 1761 Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

概要

マラーターがアフガン勢に大敗した。インドをまとめられる勢力がいなくなり、東インド会社の道が開く。

場所

パーニーパット
29.39°N 76.96°E · インド・ハリヤーナー州

本文

デリーの北およそ90キロ、ヤムナー川の西に、パーニーパットという町がある。北西の峠を越えてインドに入ってくる勢力が、デリーを目指して南下するとき、必ず通る平原だ。1526年には、中央アジアから来たバーブルがここでデリーの王を破り、ムガル帝国を開いた(第一次パーニーパットの戦い)。1556年には、その孫のアクバルの軍が同じ平原でインドの側の勢力を破り、帝国の基礎を固めた。1761年の戦いは、この平原で戦われた三度目の大きな決戦になる。

18世紀の半ば、インドの主役はもうムガル皇帝ではなかった。アウラングゼーブの死後、帝国は急速に衰え、1739年にはイランのナーディル・シャーにデリーを略奪されて、その弱さをさらけ出した(ナーディル・シャーのデリー略奪)。代わって力を伸ばしたのが、インド西部のデカン高原から興ったマラーターである。17世紀に英雄シヴァージーがムガルに抵抗して国を開き、18世紀には宰相(ペーシュワー)の家が実権を握って、各地の有力な武将を束ねる連合の形をとった。マラーターは北へ勢力を伸ばし、ムガル皇帝を保護する立場に立って、北インドから南のデカンまでの広い範囲に影響を及ぼすようになった。

アフマド・シャー・ドゥッラーニー
アフマド・シャー・ドゥッラーニーWikimedia Commons Colonel Gentil · Public domain

北西からは、もう一つの勢力が迫っていた。ナーディル・シャーの配下にいたアフガン人の将、アフマド・シャー・ドゥッラーニーである。ナーディルの暗殺後、アフガニスタンに独立の王国を作り、何度もインドに攻め込んで、パンジャーブを奪い合った。1758年にマラーターがパンジャーブにまで兵を進めると、両者の衝突は避けられなくなった。

1759年の末、アフマド・シャーは再びインドに入った。北インドのイスラーム教徒の勢力、とくにロヒラのアフガン人の首長ナジーブッダウラは、マラーターの進出を嫌ってアフマド・シャーと手を結んだ。アワドの太守もアフガン側についた。宰相のバーラージー・バージー・ラーオは、いとこのサダーシヴ・ラーオ・バーウに大軍を預けて北へ送り出し、自分の長男ヴィシュワース・ラーオも同行させた。

マラーター同盟の版図(黄色、1760年)
マラーター同盟の版図(黄色、1760年)Wikimedia Commons Public domain

マラーターの軍は、フランス式の訓練を受けた砲兵を連れていた。指揮したのはイブラーヒーム・ハーン・ガールディーで、その大砲は軍の大きな頼りだった。一方で、軍には巡礼者や従者、商人、兵士の家族など、戦わない人々が膨大に付き従っていた。北インドの聖地への巡礼を兼ねたような大移動で、その数は戦う兵よりも多かったとされる。

両軍は1760年の秋から、パーニーパットで向かい合った。兵力はほぼ互角だったとされるが、数は史料によって大きく違う。対峙は2か月以上続いた。アフマド・シャーは周りの道を押さえ、マラーター軍への補給を断った。北インドの勢力の多くがアフガン側につき、あるいは中立を守ったため、マラーターは味方の土地から食糧を得ることができなかった。陣中では食べ物が尽き、人も馬も飢え始めた。

アフガン軍の兵士
アフガン軍の兵士Wikimedia Commons James Rattray · Public domain

1761年1月14日、追い詰められたマラーター軍は、陣を出て決戦に挑んだ。朝のうちは、ガールディーの砲兵がアフガン軍の一翼を打ち崩し、マラーター側が押していた。だが昼を過ぎると、飢えと疲れで兵の足が止まった。アフマド・シャーは温存していた予備の兵を投入し、駱駝に載せた旋回砲で射撃を加えた。午後、ヴィシュワース・ラーオが銃弾に倒れると、それを見たサダーシヴ・ラーオ・バーウは象を降りて敵陣に斬り込み、行方が分からなくなった。マラーターの軍は崩れた。

その後に起きたのは殺戮だった。逃げる兵や非戦闘員は追われ、翌日には捕らえられた者の多くが殺された。戦死者と殺された人の数は、数万に上るとされ、非戦闘員を含めると10万を超えたとする見積もりもある。マラーターの指導層の多くが、この一日で失われた。

アフマド・シャー・ドゥッラーニーの肖像(ムガル細密画、1757年頃)
アフマド・シャー・ドゥッラーニーの肖像(ムガル細密画、1757年頃)Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

南で知らせを受けた宰相バーラージー・バージー・ラーオは、息子といとこと多くの将を失った衝撃から立ち直れず、半年ほどのちに世を去った。その知らせは、二つの真珠が溶け、金貨が27枚失われ、銀と銅の貨幣は数え切れない、という暗号めいた言葉で届いたと伝えられる。

勝ったアフマド・シャーも、インドに留まらなかった。兵たちは長い遠征に疲れ、給料の未払いに不満を募らせていた。アフマド・シャーはムガル皇帝の位を形の上で認め、2か月ほどで引き上げた。その後はパンジャーブで力をつけたシク教徒の抵抗に悩まされ、インドに大きな力を及ぼすことはなかった。

カーシー・ラージャ・パンディトの記録に基づく第三次パーニーパットの戦いの布陣図
カーシー・ラージャ・パンディトの記録に基づく第三次パーニーパットの戦いの布陣図Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

結果として、インドを一つにまとめうる勢力はどこにもいなくなった。マラーターは10年ほどで立ち直り、1771年には武将マハーダジー・シンディアがデリーに戻って皇帝を保護下に置いたが、宰相の権威は衰え、連合は有力な武将たちの家に分かれていった。

その隙を突いたのが、イギリス東インド会社だった。1757年のプラッシーの戦いでベンガルに足場を築いていた会社は、パーニーパットの3年後の1764年、ブクサールの戦いでムガル皇帝とアワドとベンガルの連合軍を破り、翌年、ベンガルの徴税権を皇帝から与えられた。会社はベンガルの富を手に、インドの支配者へと変わっていく。マラーターとはその後3度にわたって戦い、1818年に最終的に屈服させる(第三次マラーター戦争)。パーニーパットの一日は、インドの主役がどこから来るのかを、北西の峠から海の向こうへと移す転機になった。

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