フォークランド紛争
概要
アルゼンチンが島を占領し、イギリスが1万3千キロ先へ艦隊を送った。74日で奪回する。両国の政権の行方が、この戦争で分かれた。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
マーガレット・サッチャーAD1925年10月13日–AD2013年4月8日 · 首相本文
フォークランド諸島は、南アメリカの南端から東へ500キロほどの南大西洋に浮かぶ島々である。18世紀にはフランス、イギリス、スペインが相次いで拠点を置き、独立したアルゼンチンも領有を主張した。1833年にイギリスが軍艦を送ってアルゼンチンの役人を退去させ、以後150年、実際に治めてきた。住民は1800人ほどで、ほとんどがイギリス系、主な産業は羊の放牧だった。アルゼンチンではこの島々をマルビナス諸島と呼び、取り戻すべき土地として学校でも教えてきた。
1982年のアルゼンチンは、軍事政権のもとにあった。1976年のクーデター以来、政権は反対派を大量に拉致して殺害する「汚い戦争」を行い、経済は激しいインフレと借金に苦しんでいた。1946年に始まったペロンの政権(ペロン政権の成立)が1955年に軍に倒されて以来、この国ではクーデターが繰り返されてきた。軍政の長ガルティエリ大統領のもとで、国民の不満は高まっていた。島を取り戻せば国民はまとまる。イギリスは遠く、本気で取り返しには来ないだろう。軍政はそう読んだとされる。

4月2日、アルゼンチン軍が島に上陸し、首都ポート・スタンリーの小さな守備隊は降伏した。ブエノスアイレスの広場は歓喜する群衆で埋まった。翌日には東の南ジョージア島も占領された。国連の安全保障理事会は、アルゼンチン軍の即時撤退を求める決議を採択した。
イギリスの首相マーガレット・サッチャーは、島を取り戻すと決めた。国内の経済政策が不評で、支持率は低迷していた。艦隊の派遣は大きな賭けだった。空母2隻を中心に、徴用した客船や貨物船まで含めて100隻を超える船団が、1万3千キロ先の南大西洋へ向かった。航空機の数でも、地の利でも、アルゼンチンが有利と見られていた。アメリカの国務長官が両国の間を往復して仲介を試みたが、まとまらなかった。

5月2日、イギリスの潜水艦がアルゼンチンの巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノを撃沈し、323人が死んだ。艦が設定された戦闘海域の外にいたことから、のちに激しい論争になる。2日後、アルゼンチン空軍の戦闘機が放ったフランス製のミサイル、エグゾセがイギリスの駆逐艦シェフィールドに命中し、艦は炎上して沈んだ。アルゼンチンの操縦士たちは低空を飛んで次々に船を攻撃し、イギリスは駆逐艦とフリゲート、輸送船を失った。
5月21日、イギリス軍は東フォークランド島の西岸サン・カルロスに上陸した。兵士たちは重い装備を背負い、冬の荒野を何十キロも歩いて首都へ向かった。グース・グリーンで戦い、6月8日には上陸用の艦が空から攻撃されて多くの兵が死んだ。首都を囲む山々で夜の戦闘が続き、6月14日、アルゼンチン軍は降伏した。占領から74日目だった。

死者はイギリス側255人、アルゼンチン側649人、島の住民3人とされる。アルゼンチンの兵の多くは、短い訓練しか受けていない若い徴集兵だった。
戦争は、二つの政権の運命を分けた。アルゼンチンでは、敗北が軍政への怒りを爆発させた。ガルティエリは3日後に辞め、翌1983年には選挙が行われて民政に戻った。1985年には、軍政下の弾圧の責任を問う裁判が始まり、元大統領たちが裁かれた。イギリスでは、サッチャーの支持率が跳ね上がった。翌1983年の総選挙で保守党は大勝し、彼女は改革をさらに進めることになる。

同じ1982年の暮れに採択された国連海洋法条約は、沿岸から200海里までを排他的経済水域と定めた。島のまわりの海は、イカなどの豊かな漁場で、近年は海底の石油も注目されている。領有の問題は、島の土地だけでなく、広い海の権利をめぐる争いにもなった。
戦後、イギリスは島の守備を固め、漁業の許可などで島の経済は豊かになった。2013年に住民が行った投票では、99パーセントを超える票がイギリス領にとどまることを選んだ。アルゼンチンはいまも領有を主張し続けており、4月2日はマルビナス戦争の戦没者を追悼する国の日になっている。