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Person / 人

尚寧王

Shō Nei
AD1564年 – AD1620年(享年56・推定)
琉球王国重要度 3

概要

第二尚氏7代。1609年、薩摩に攻められ、首里城を明け渡した。鹿児島と駿府と江戸へ連れられ、家康と秀忠に会った。2年後、「琉球は代々薩摩に属する」という起請文に署名して帰った(三司官の一人、謝名利山は署名を拒んで斬られた)。歴代の王が葬られる玉陵に入らず、自分の一族の浦添の墓に葬られた。

所属

琉球王国

関わったできごと(1)

薩摩の琉球侵攻AD1609年4月5日(慶長14年3月) · 開いた

本文

1564年、久米島の大里の家に生まれた、と伝える。第二尚氏の尚円の曾孫。1589年、尚永王に子(男子)がなく、王女の婿として即位した。25歳。

治世。1592年、秀吉が明を攻めるための兵糧7000人分・10か月分を求めた。琉球は半分だけ送り、同時に、明に「日本が攻めて来る」と密かに知らせた。1603年、家康が「礼を尽くせ」と求めた。1606年、明の冊封使が来た(琉球は明の臣であることを、公に示した)。薩摩は、その間、何度も使者を送って、日本への使節を要求した。

1609年3月、薩摩の軍。奄美、徳之島、沖永良部、そして本島。首里。

三司官の謝名利山(鄭迵)は、久米村の出で、明の国子監に留学した学者で、抗戦を主張した。尚寧王は、和睦を選んだ。城を明け渡し、命は保証された。

鹿児島へ。1610年5月、駿府で家康に、8月、江戸で秀忠に会った。行列は、京と江戸で見物された。「琉球国王の来朝」として。日本の側は、これを「異国の王が徳川に服属した」と見せた。

1611年9月、鹿児島。起請文。「琉球は往古から島津の附庸であった」「奄美五島を割譲する」「掟十五条を守る(日本の許可なく明と交易しない、薩摩の在番の指示に従う、など)」。三司官のうち二人は署名し、謝名利山は最後まで拒んで、斬られた(釜茹でにされた、という伝えもある)。

尚寧王は帰国した。王のまま、しかし、薩摩の在番奉行が那覇にいて、検地(1611年、8万9086石)と人口調査が行われ、年貢が定められた。明(清)への朝貢は続けさせられた。それが薩摩の利益だったから。冊封使が来るときは、日本風の物を隠し、薩摩の役人は身を隠す。「唐の世(からのゆー)と、大和の世(やまとぅゆー)」。

1620年、死んだ。56歳。遺言で、歴代の王が眠る玉陵(たまうどぅん)でなく、自分の生まれた家系の墓、浦添ようどれに葬られた。「私は、国を失った王だから」と考えたのだ、と後の人は言う。子がなく、尚豊が継いだ。

浦添ようどれは、1945年の戦争で壊れ、2005年に復元された。石棺が残っている。